アウトプット

相手の視点に立ってみよう

言いようもないことについて

 今の社会が一体どうなっているのかを知るにはあまりにも情報が多すぎるのだ。定義ができないんだから。得体が知れない。近寄りたくても何が本当で何が嘘なのか。その真偽さえどうでもいいように思われる。結局は人間は何も知ることができずに死んでいくのだとしたら、知ろうとする努力は虚しいではないか?しかし、セックスをした後もまたセックスをしなくちゃ気が済まないように。何かを知って、それが嘘だと分かったとしてもまた、知ろうとするのが人間じゃなかろうか。その他に、深遠な真実なんてものを知ることができるとは思えないのだ。

 僕はついに僕の言葉を失ってしまった。説得しようと思っていう言葉には何も意味がない。真実がない。真実が一過性のもので会っていいものだろうか。例えば、好きだという感情は一過性じゃないか。では、真実は一過性のものだというのも真実だろう。こうなると非常にめんどくさい。考えるのも億劫になる。要するに、どうすれば対話を続けることができるのかというレベルにいるのだ。それが、喧嘩でも構わないのだ。

 小林秀雄が言っていた、対話とレトリックは対立するのだと。真に心を開いて対話することと、相手を説得しようとするレトリックは対立するのだ。

 もちろん、反論はある。でも、意味がないじゃないか。と、断言できないのだ。何が本当なのか。何を知りたいのか。知りたいことを知ったとしてそれは自分に都合のいいものではなかろうか。そんなことを知ったとして喜びはあるのだろうか。できることを毎日することに喜びがあるとしたら相手からの参照というサービスが必要になるであろう。店員はサービスをするが、客もサービスをしているのか。どうでもいい問題だ。問いを発することが大事だ。それだけだ。問いを発明しようじゃないか。