アウトプット

相手の視点に立ってみよう

2019年

 決意が嫌いだ。決意したことは叶えられないようにできている。それは一般的にそういうわけではない。世の中には、決意を新たにという人もいるだろう。過去を引きずらずに新しく歩もうと考える人もいるのだ。しかし、それは不可能だ。私にとって過去は掛け替えのない財産なのだから。それしか消費するものがないというのも悲しい現実である。誰に対しても、私はよそ者顔で歩いている。それをここに告白するくらいのことしか能がないのだからしょうがない。人間真実を追い求めてしまえば虚無に帰するのが実装だというのがそろそろわかり始めてきたのではないかと思う。全ては虚無であるといいながら実感が全く湧かない。ご飯は相変わらずに美味しいのだ。

 ついでに言えば、論証の必要性がわからないのだ。すでに嘘がまかり通れるような世の中になっているのであるならば、想像力を推し進めるべきなのかもしれない。それが意味するのは、倫理観がなくなっているということなのであろう。最後の砦は倫理である。嘘をついて何が悪いという気持ちを持っていれば、それでも世間を私歩くことができる。しかも、思ったよりも快適に歩くことができるのだから使わない手はないのだ。嘘は潤滑油である。しかし、同時に身を破滅に向かわせるものでもあるのかもしれないがその事例があまりないので嘘のメリットである潤滑油としての使用方法を多用するのが今の流行りなのかもしれない。私は嘘を大いについていることを自覚しているが故に嘘をついていることが周りにバレるのですぐに自分は嘘がつけないようなシステムに自らを追い込んでいるのか、図らずとも自分の性格的な何かでそうなっているのか不明であるが、少なくとも私は嘘をつく際には相手の勘違いに乗じて嘘をつくか、それとも自らが間違っているが故に嘘になるのかという形でしか嘘をついていないように思える。何が本当で何が嘘なのかを知るには、やはり教育が必要なのである。倫理観がなくなってしまえば、人間はどうなってしまうのだろうか。矜持という言葉もなくなっている。本当に大事なことは言っちゃいけないのだ。告白文学を本音だと思っちゃいけないけれども、告白文学が楽しいのも本当だ。と書きながら、ちっとも太宰治を最近読んでいないのもまた本当だ。要するに本当だと書かなくてはならないような状態は嘘である。周囲が嘘を見破れないことを嘆くよりも、現代は、自分が周囲を納得させられることができなかったことを悔やむ時代である。世界は静かである。静謐な世界が一番良いのではないだろうか。私にはそう思われるのである外貨かであろうか。私は自分を卑下する暇を失ってしまって一向に構わないと思う。この辺の心理を会得し自分を納得させてきたが、今や何が理由でこんなことを書いているのか動機が判然としないのだ。いくらでも理由をつけてやらないことをやれる。理由はあくまである。論証は必要だろうか。相手を説得するのにどうすればいいのか。相手を説得したい気持ちがなければ相手を説得するための論証も不十分になってしまうのではないか。私は相手を説得したい気持ちがないから論証に不十分であり、なんでも勝手に好き嫌いで物事を信じてしまいたい気持ちがするのである。またその方が、効率的に物事が動き始めるのではニカという感じがするのである。しかし、効率的に無駄を排除すればことが足りるのかと言えばそうでもないような気がするのだ。効率的だという語感のイメージから連想されることに私は執着してしまっているとここに告白しなくてはならない。私はいつまでも分析される必要がある。それによって獲得された自由は言語の換気するイメーズからの逃走であろう。いったい私は人生という言葉を何百回使えば自分が納得できる人生についての説明を成すことができるというのだ。人生人生と私が言う時にそこには長期的に見た生活の先取りがあるのだろうと思われるのである。私が持っているのは若いという財産でしかないのだ。今の若者が金という財産のために何もできないでいるのは老人たちの仕込んだ罠であるとここに書いておく。家に帰りビデオカメラを回して商品説明するようなことは老人でもできるのだ。ただ、購買意欲が湧かないのはいうまでもない。いったいこの世界でどうして人は消費することでしか鬱憤を晴らせないような時代であると思わせることができているのか。ちっともわからないまま私は2019年を迎えてしまったのは非常に残念であるしまた、正月晴れが続いたにも関わらず家にずっといることはまるで老人にでもなったかのような気がして大嫌いであった。私は疲れたという言葉も嫌いだが、相手を褒めない人間も大嫌いだ。相手を叱って何の意味があるのか。ない。全くないのだ。不寛容がそこにあるだけじゃないか。褒めるとこは褒めて、褒められないところは黙っていればいい。その態度で人は成長しないとか言い始めるが、人間は成長などしないものだ。人間に成長を求めるのならば、自分がバカになればいい話ではないか。ある人は料理もできて綺麗好きでという人がいるかもしれない。そんかわりに、潔癖症でこうるさいに決まっているのだ。と、私はまたどうでもいいことを永遠と書き続けて脳みそを文字モードに変換してやろうという気合いを入れ直しているのだ。一体全体どうして僕はちっとも自分を愛せないのだろうというもう、答えきれない問いを持ち続けるよりかは小さな問いを積み重ねていって道を作る方が私を動かす動機人あるように思われる。ある目的を設定すればそのために努力をするかもしれないが、それは長続きはしないものである。おにぎり一個でエベレスト山に登ろうとする気合いとおんなじことかもしれない。加えて、自由に物が言えるというのは自分の発言の真意などどうでもよくてただ工場に上がった言葉をいかに下の上に乗せて空気中にばらまくかの話ではって、相手に真意の変更を促すような仏教的な仏説について少し辟易している部分があるのも本当だ。仏教は一人で学ぶものであるし、孤独に歩めと真理の言葉に書いてある。自分が尊敬する人がいないのであるならば、一人で歩めというのだから清々しい。だから、仏教が好きなのであるけれども好きだからという理由でこうも長く仏教的なことに惹かれはしないのだ。焼肉が好きだからという理由で毎日焼肉を食べようとはしない。しかし、仏教関連の本ならいくらでも読んでしまおうという気持ちが起こり得るし、本屋さんへ行っても仏教ボンのコーナーに行くんは嫌いだが講談社学術芸文庫の本棚に収められている仏教本は非常に面白い。