アウトプット

相手の視点に立ってみよう

暑い

暑い日が続くねー。外に出たくないよ。最近生きてるのがよくわからなくなった。自分の人生なんてアホみたいなことも言いたくないし、しゃべるだけ喋って何も別に結論に達しないのもそれでいいんだと思うけれども、やはり何か行動を起こしているときの私は興奮を伴っていい気持ちで居られるんだ。それが嘘だというのなら、嘘であっても構わない。私は人を説得するために文章を書かない。それが技術的にできるかどうかよりも、私の文章に引っかかる人間は必ずどこかにいるわけだから。この広い世界のどこかにね。映画のタイトルみたいな文末になったけど、許して。誰に請うてるのか。

 

哲学者 君は人生について話せ

私 唐突だね。文字なんて信用していない。いつだって文字から逃げられる。逃げられないときはお縄さ。獄中で死んでくれたら検察も楽だったもんだ。仕事が一つ減ったしね

哲学者 君は法律をかじってるけれども心は腐ってるな

私 どうだか、心が腐ってるってのは君の心が腐っているからそれを僕の心に投影した結果君が反射的に受け取った、君自身の客観的な心のことを腐っていると事故表明したに違いない。

哲学者 君というめんどくさい存在がいるせいで社会は生きづらいんだ。

私 社会というとき私は別に公正んであったりなかったりするくらいの存在だから影響を与えることもないと考える輩がいるのは確かではあるけれども、いつの日かそういう人間の疑問に答えられずに懺悔してまだまだ勉強が足りませんでとか言いながら、勉強する気などもなく日がな過ごして金もらい適当に生きている奴らが社会の中枢に勘違いした使命感を持って生きているのなら、私は彼らに嫉妬しなければならない。私こそその場にいるのにふさわしいと、私自身が考えるからだ。

哲学者 でも、君を評価するのは君で貼ってはいけないんだ。

私 そうである。しかし、そうでもない。なぜなら、私は必ず他人が私の中にいるからだ。いきなり裸にならないのは、裸になったときの羞恥心が露出を止める体。恥ずかしさは、他者のことかもしれない。他者の視線、他者の評価、それが恥ずかしさだ。恥の少ない人生は、自由もなく息苦しく顔はやつれているだろう。

哲学者 僕は自分が哲学者である自信を失いそうだよ。

私 世に何かしらの職業的名称を方外にしている人間は病院のカルテに名前はないにしろ何かの病気にかかっているようなものだから、君はその死に至ることのない病気を楽しめばいいのだ。

哲学者 私は深く考えているつもりでそれを演出するのに声のトーンを変えたりしている。

私 いわゆる話し方が第一ってことだね。わたかるよ。話し方さえよければ、それが本質的であるかどうかはどうでもいいんだからね。

哲学者 お腹すいたよ。

私 私もだ。何か食べよう。

人生が終わる日

やめっちまえよ、くだらねえ。女がどうだ、親がどうだ。そいつらの気にしてたら俺は死んじゃうね。あー死にたくなっちゃうね。俺は女のために生きてんじゃない。まして、親のためにいきてるんでもないんだな。近頃はうるせーよ。自分の姪ができたら他人に自慢だ。自慢する材料ばっかり探して、自分は本一冊読まずバカになっていくのがわからんのだから。言わせてもらうよ、バカだよ俺なんて存在は。親からカネをもらうのは一流に罪悪感のいることなんだよ。不具者と同じだよ。働いてる不具者以下の存在なんだな。そう社会が声がけしてくるのがわかる。社会のスローガンが国民総生産のためにあるなんて考えてるからな。いったいなんで他人の飯作ってそれが金になるんだよ。飯ぐらい自分で作りやがれってんだ。美味しい飯が作れるんなら、振る舞えばいいじゃねーか。それを金にして儲けようなんて魂胆が卑しいね。周囲を見渡せば卑しいやつらばっかりだよ。黄金稼いでクソまずい酒飲んで次の日に気分悪くしてまた働いて。反吐を出すために苦しんでる。どうしようもないよ。一方でカネをためて将来の不安のための貯蓄が鬱憤した無意識の引き出しから出て行くってこともあり得るんだね。ああ、世の中が嫌になったなんて俺は言いたくないけど、今俺の頭に浮かんでるのは世の中が嫌だってことだ。なんでかって。俺が思っていた世界と違うからだ。邪道俺は世界を見ていたんだ。おそらく今と変わらない。小さい頃から今になるまで、俺は世界を同じ風に見てきた。じゃなんだって嫌なんだ。小さい頃に死にたくならなかったのか。それは俺が変われたからだろう。大人になりゃ経済がのしかかって変わる機会を剥奪されるんだ。男女差別も年齢差別もあるんだ。それを嘆いたってアホらしい。道はあるんだから。独学だよ。独学ってのは自分で自分の疑問に答えるってことだ。この意見は本居宣長を書いた小林秀雄の公演からパクってきたもんだから、偉そうに言えないけど、疑問を持つってことだよ。発見なんてものはないんだ。人間を分裂的に見ちゃいけないんだ。わかるか?僕は以前と違って、随分複雑になった。複雑ゆえに私は分裂すると書くのは容易だ。分裂するって意識が分裂するのかい。それならば文章なんて誰にも解読できない。自分さえも後で読み返してみて分裂しているゆえにわからない。文章は事実を書き留めるメモである。事実が何か?自分の心に思い浮かん多ことだろうが、それを書きとめて半数もせずただ移ろう心を描いていけば何か一つのまとまりが見えてくると信じるところに文章の信ずる所以があるが、私は文章について従来言葉の次に来るメモ程度のもの、思い出すのに必要なキーワードの書かれた記憶を托する場所であると考えるのだが、記憶は文章の形で思い出される。一定の記憶を一定の感情を伴って思い出すのが文章だ。文章は変わらないが解釈によって変わりうる。解釈は、私の頭に起こる。それをまた文章にしてどこへ行き着くのかわからない。目的地を持った文章がない。私はいったいこれが金になるから書いているわけでもないので目的はないのだ。ある程度小説かなり新聞記事を描く身になれば、書く文章に規範も出てくるだろうが、そう規範にとらわれても面白くないだろう。書いていて面白くないような話は、書かないほうがいい。私は書くことの意味について少し今わかりかけているような気がする。書くとは、つまり、自分が言いたいことを書くということだ。そこに何かしら、利益だとか目的を持たない文章こそ私が書きたい文章なのだ。私の独り言を聞いてくれる人はいないのだからここに私は書くのだ。ラカンは、自慢話で第三者の存在を認めるが、私は知識のひけらかしをしたいのではなく私の中に知識とやらがどうまとまってきているのかを知るために書いているのだ。記憶の定着で同じことを何度も繰り返していれば、私はそこに何かしらの目的なり意志があるのだろうと感じてしまう。すべての目的を金銭に置き換えて解釈するのは容易な手段であるが故の誘惑である。私はいったいこれからどこへ漂流していくのだろうと思ってもいない、けれども、そういう可能性がない今の状況において人間は不安から行動を起こし不安と同居するがために秩序を維持する本能を見出すのだろうと考える。

人に好かれようとする努力はすべて、無意味だ。人生に何ももたらさない。嫌われるくらいの勇気を持て。嫌われて傷ついてそれで笑えばいいのだ。決して人に好かれるような人間にはなるな。人に嫌われるようになったらしめたもんだ。一番は人なんて気にしないことだ。自分は自分である。

やめよう

 テレビを見るのはもうやめよう、あったこともない知らない人の意見を追従するのは。行ったこともない外国の風景ばかり見て近所の店も知らないなんて。食べたこともない料理を好奇心から食べられもしないのに芸能人の反応を見たりするのも。変な日本語とイントネーションを生まれてから学校で強制的に身につけたアナウンサーの奇妙な声も。声を文字にして色をつけるのも。私はアホですと言わんばかりに嘘八百の笑顔を振りまいてゴミを売るCMも。カネを貸すのにダジャレを使うバカも。ああ、世の中が嫌になってくるからテレビよ無くなれ。

 

厭世的

 人の世が嫌になる。人が大嫌いだ。電車の中で、ばあさんが、品は良さげだが、ドアの前に立ち他人の私に迫り近づいて臭い口から臭気を放つ。品はいいけど、体臭までは隠せない。ああ、そうして人は嘘に嘘を重ねて嘘を塗りたくり裸になれずいつまでもシャワーを浴び汗を流せず不快な気持ちを抱えて生きている。学校へ行けば聞いたような話ばかりでうんざりしてくるし、私は退屈まぎれにアホのようにメモを取るのだが、たまに頭にくる一言を発する奴がいて、そういう人間を見ると笑うしか手段がないのに今更ながら自己嫌悪に陥る。要因は複合的でその一言はきっかけであり原因としては一つに過ぎないのだろうけれどもも。今の私に元気ある文章はかけやしない。文章でハイになるほど元気が残っていないのだ。言葉に関して規制が私の心を押し付ける。心とは言葉に他ならない。言葉を持たぬものに幸福もなければ、不幸もまたないのである。みよ、街中を走るフェラーリを。見よ、街中を歩くスーツを。フェラーリの値段はわかるが、スーツの値段はわからない。幸福とは、値段の張るものを身につけること・・・一番わかりやすい一つの幸福の形であり、気持ちを値段に預けることで硬直化した心の持ち主にとってはその形でしか幸福はありえないのだろう。小さい頃の貧しさが、大きくなって感性に歪みを生じさせる。そう、今の大人は貧しかったのだろう。だから、私にはその卑屈が目について吐き気がする。嘔吐だ。もう酒は飲まない。酒を飲んだ次の日は気持ちが悪く活動する気にならないからだ。私に必要なのは十分な休息と、目的意識であろう。後者に関しては放棄している。目的意識など嘘でいくらでもその場で繕えるのだから安心すればいい。まして、実現のために周囲に目標を口に出して表明するバカもする気がない。立志式など、自白以外の何物でもない。アホは、親への感謝と狭い了見で将来の夢を同級生に披瀝して恥を晒す。百姓根性の純粋さからだろうか。私は一人になって、家族から断たれ死ぬ思いである。自ら死地に赴くこともなくしぬる思いでいきたいとも思わずに、連綿とくだらないことをして生きている。何か第三者の利益になるような行動をして社会参加をしなければ幸福という社会の果実によだれを垂らしてありつく体たらくに身を投じなければ、私は幸福になれないのだろうか。はたして幸福とは社会の果実なのだろうか。そう考える私はいったいなぜそう考えるのだろうか。人間の何十万年と培ってきた分厚い地層が意識されずに私にもたらすものよ。ああ、私はどうしてこうも自分なのだろう。自分なんて捨ててしまって早くあの世に行きたいのだ。あの世にいって自分なんて捨てて、つまり意識を立ちたいのだ。意識を絶ったとて死んだとは言えない。また別の世界があって次元をことにして意識が蘇るのかもしれない。今までは夢だと言わんばかりに。とすれば、いつまでたったも意識は続くではないか。あっちの世界でお線香あげているときに私は別の世界でセックスをしているのかもしれない。もう良い。このような社会はもう良い。遠慮して遠慮して遠慮して言いたいことを言えば、地雷を踏んだと足を吹き飛ばしても良いと、人々は考えているような。もう良い。

吐き出し口を探してる

 人から影響を受けたいか?そうだね、人の欲望ってのは転移して、つまり君の欲望は君が生み出したのじゃなくて君じゃない誰かから君が勝手に受け継いだものなんだよ。だから、君の行きたいように生きるのが親の願いさという場合においても親の願い通りに生きることに他ならないのだから矛盾が発生するんだ。矛盾が発生してもそれをどうとらえるのか、たいした問題じゃないから好きなように人とセックスして倫理とやらに昔は抵触したであろう規範を、規制のゆるまった現代において破ったというちょっとした安全圏内の背徳感を味わいながら男女3人でプレイするのも悪くはないのかもしれないが、自らの過大評価と周囲の蔑視が彼らをさらに燃え上がらせるから黙っておこうという配慮は一向に感じない幼稚なお遊びだ。

 僕は自由を愛する。この言葉がいかに、陳腐に聞こえようとも私の中にあるのは自由である。さて、自由とは何かというとき言葉で定義できないから自由感と言っておこう。しかし、一般的に自由を定義する矛盾、自由は捉えどころがないわけであり言葉は自由の者と発せられているとすれば、先人の言葉さえもどこか自由の空気を感じないわけでもないけれど、判例なり、それこそ、先生の言葉さえも踏襲して人に説教しようなんてつまらないお節介を焼いて人に嫌われたり泣かせることのないように自らを戒めようと思う。

 私は自分で自分を戒めるに関して好きだが、他人から戒められるのは大嫌いだ。自分が完璧であるから発言権があると思っている連中でさえもそのうぬぼれが嫌いだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。今日はいったいなんのお話をしましょうか。

 そう、教えることについて。人に教えるには、教えてもらったことしか教えられないという限界がある。従って、誰かに教えてもらったことをその人占有の知識だとは思わないことだ。議論の形式でしかそれは伝えられない。教えると言っても、大学では議論になるが、小学校では議論にならない。とにかく従えと要求される。それが保守的なじいさんばあさんの硬直した思考(何故ならば、彼らの硬直した思考も彼らの意志がもたらしたのではなく生物の自然な老い方として生まれてきたときに仕込まれているものだから。老人笑うな、お前もそうなる)・・・・。

 私は捌け口を求めている。一方で私の言葉を受け取ってくれる人がいないで欲しいと考えている。私は気分の共感などを期待しているときといないときがある。例えば嫌いな人とは何一つ共有したくないものである。話したくもない。あるのは、相手を打ち負かし文句を垂れる悪口があるのみだ。皆と仲良くできる女と違って、私は仲良くなどできないわけではないのだが、私は自分について語るだけの資格を持っているのか知らないが、とにかく自分というものの直感を忘れないでいたいのだ。そうでなくちゃ誰かの意見を聞かなくては何も言えない情けない大人になりはしないか。もちろん人に話すよりも人の話を聞く方が楽だしその方が話す人にとっても楽なのはわかるけれども。でも、思想や意見の違いを表明したところで生き方など何一つ変わりやしないのだから。ただ、変化ももたらさない愚痴に楽しく付き合うには相手の意見を聞きながら、心の中で相手をバカにしたり相手の論の弱いところを探すだけで十分なのだ。それを外に出して何に使うかは知らないけれども。それにしても、沈黙ほど自分を守る手段もないものだ。人話せば話すほどに自分を見失っていく。自分を発見していくと言ってもいい。そして、次第に傾向を帯びる。同じ文章ばかり増えていく。それが私だ。それが文体であろうか?言いたい放題言えるほど私の心は自由を感じていないとしたらいったい誰が私の言葉を抑制しているのであろうか。案外日常生活を退屈に暮らすために私は自分の口を塞いでいるのかもしれない。私はどうしもて生きるだけでもうけものだとは思えないのだ。人に話がよく変わるのでなんの話かと言われるけれども、そんなのはどうだってよくて、いつまでもいつまでも独り言をいって誰かに何かを聞いて欲しいだなんて思ったことはないのだ。

脱臼

 僕の意識は飛んで蝶になり荒野を急降下。散らばるアスファルトの破片に電波を乗せて電気を通そうと一生懸命になる。わけのわからない文章を作るなら私にまかせよと怪文書を書いてみれば集まるは訴訟の文面ばかりなり。荒野に集う精神障害者と呼ばれる普通の人間たちをひどい病気にかかって神経が断ち切られ医者の診断を大人感覚の拠り所にしている労働者たちは一流に決め込んだ服で人間を騙しあい見せかけの公衆トイレに落ちているようなエロ本にかかれた台本を舐めるように、今日も香水ふりかけて電車の広告を一瞥するなりポケットから取り出した小さな画面に目をやり考えることもせず死んでいる毎日に感謝している。赤い電車に飛び込み勝てば死ねるという元気さも、私には東京もニューヨークもタイさえも同室に見えてくるこの社会の危うい近接感を、ロマンチックのかけらもなくなり、すべてが現実に起こりうるようなと思えるほどの私の想像力のなさに感嘆しこの想像力の欠如こそ私に身体の安定性に寄与していると感じているのだが、新しい者を想像するには不安定な身が必要なのだと言わざるおえないくらい社会は新しい者への嫌悪感と不必要性を感じているに違いない確信を抱く、危ない精神状況を解決などする気もなく時は流れて、日々老いさらばえる私にできるのは心のゆとりをもって平常を死んでいくのみであるという観念にそういない。私という存在を深く掘り下げて身はしてもそれを外に出さなければ役立たず。役に立つには第三者が必要で私の嫌いな他者の侵入を殺さずに生かしておく手段を身につけようと必死になっている。私はどうしても私が愛おしくてたまらないのに他者は私を分離させる。

嘘だね

 嘘について、嘘を勧善懲悪ヒーローの悪者に据える製作者側の大衆への媚が鼻につく。

 

 テレビ・・・絶対正義実現の場であり批判を加えれば見なければいいと帰ってくる押し付けがましいノイズ。

 

 若者から老人・・・因果関係で世界を認識したつもりになることへの諦めのプロセス。

 

 セックス・・・コミュニケーションと着払いなのか先払いなのか着いてから楽しみにするドキドキの賭け事。

 

 インスタ・・・古典的自慢の方法を実践する保守的な傾向のある者たちが、科学の英知を鍬に変えて田んぼを耕す百姓根性をひけらかす場。

 

 冷酒・・・汗臭い男たちの内臓に清涼感を与える神聖な水。

 

 私・・・最大の難問であり一兆円のコンピューターさえ欺く安定した嘘つき。

 

 警察・・・真面目な警察官は、警察官からも嫌われる。

 

嫌われ者・・・美しい水