アウトプット

相手の視点に立ってみよう

結局我々は何も解決できずに22世紀を迎えるのだろうか

 核廃絶と言いながら、政治の争点となり国民を議論に巻き込み政治家は口だけ回って遊んでる。しかも、口が上手いわけでもないので聞いていられない。議論をする気がないので、他人の意見にいかに耳を貸さないかが強い弁論の特徴である。この愚かさを併せ持った人たちが集まって何をしようというのか。

助け居合の精神は大事だよね

 助け合わなくちゃいけないのに、お互いいがみ合って利益を奪い合うのはみっともないと思わないのかな。そんなに人よりも金持ちになって人よりも良いものが欲しいのかな。その心が、あんまり良いとは思わないから、私はいつまでたっても貧乏なのかしら。それならしょうがない。貧乏に甘んじて死にましょう。

きちがいの文章

 遠くに見えたしろいパンツが大きすぎるので、引っ掻いてみると血が滲み出してきたのだ。だから、僕は逃げてしろい海の中を歩いていたんだが、しばらくすると船が現れて僕を銛でさして船上で漁師らしき黒い肌をした髭面の親父に刺身にされっちまったのだ。これが僕が魚であればちっとも普通の話であるのに、僕が人間であるばかりにキチガイの文章であると思われてしまうのだ。

自分を離れて

 自分を離れてものをいうことが可能であるのならとっくにそんなことをしているのだとある人言われた。その人は自分であるとは誰も言えない。ものを書く速度は急激に上がった、それは使い慣れた言葉を量産することには貢献して大量の文章を世に解き放ち質がわるい粗悪品ばかりが目立つようになってそれに埋もれて時間を消費することが多くなったのもまた本当のことのように僕には思われるのだが、それについて誰も指摘しないのは当の本人がくだらない文章を書いて生計を立てているから、もし、人の文章をくだらないと言えばお前の文章もくだらないという話になって喧嘩になるだけだから、よしておこうというのが大体の賢明な人の判断であろうが、そこに合理性はちっとも垣間見得ない。いい文章とは何か、悪い文章とは何か、人生とは何か、定義を問うのは今全く流行らないことを知った。今は現象さえ追い求めればいいのだ。どこかで大量に愛するクリームが売れたら、そこに言ってアイスを食べる。なぜここのアイスが美味しいのかを描きまくる。そして、その記事が売れる。人が集まる。アイスが売れる。そして突然アイスクリーム屋さんは消えてなくなるのだ。物を売って買う生活がいいとはちっとも思わない。自分がやりたいこと、やりたくないことを懸命に守ることと、物が欲しくてたまらずそのために貯金することは全く同じことだ。こんな馬鹿げたことに人生の時間を使うのはもったいないではないか。金になることをしようという人間が集まればいいけれども、大抵の人はそんなことに興味がないので、ちっとも欲望が増えずに、要するには、そう、つまり、クソどうでもいい価値観やら道徳が議論の対象になって、あなたと私は意見が違うというのが、ブランド物のグッチを持っているお前と、カシオ計算機Gショックをはめてるやつの違いだと言わんばかりの世界になってしまえば、本当に大量殺人こそ起きないけれども、人間はどんどん意地悪になっていく。この論理は多分論理的でもないし、私自身理解しているとも思えないが、理解するという意味をよく自分が知っているのかと問われれば決してそんなこともないのだと言わなくてはならない。

不況は欲望のなさ

 中国が東南アジアで労働者に1日千円で命がけのマンション突貫工事なんかいろいろしているみたいだが、比べて日本はラッキーだなんてくだらないことを持っているのまだ平和なうちであろう。特に、中国人が押し寄せてくるのならば日本は格好の場所である。道路は綺麗で、建物もしっかりしている。その代わりにそこで働いている人たちは本当に苦労をしているのだ。東京なんて、地方が米をやらなくちゃ生きてはいけないことを忘れている。そんなこともわからない奴が何を偉そうにものをくっちゃべっているのかしらない。食べ物がなくちゃ死んでも同然じゃないか!それとも仏教の、食べ物に執着するのやめて修行に励むか?それも悪くないかもしれないね。

 とにかく、ブランドが価値をいう世界ほど面白いものはない、なんでそれがそんなに高いのと銀座で叫べばいい、それは銀座で売られているからだよ、だとか、デザイナーが素晴らしいからだよとか、要するに評判がいいから、口コミだから、これを持っているとお金を持っているという証になるからという、銀行通帳でも持ち歩いて残高見せてとなると、犯罪者グループに習われて東京湾に沈められる代わりに暗証番号を脳みそから言葉に変換して告げられるから、そうもいかないのだろう。そんなリスクを負ってまで何かしたくはないのだ。

 それにしても、人間は本当に人間であることをやめた時代だと思う。身体性を失えば失うほどに、人間は非人間的になる。そして、それを無意識に抑圧しているからお金に走る。お金があればいざとなった時に米を分けてもらえるじゃないかと。今飽食の時代だダイエットしなくてはと言いながら、食べ物は腐るほどあるんだから、安心だと思っているのに違いない。東京に住んでいると地方のことなんてちっともわからなくなる。それがわからない人間が昼飯とか入ってくだらない公共放送のくそじじいの甘ったれた糖尿声を聞いて胸をなでおろすくらいがちょうどいい日本人なのだ。何がサラメシだ、死んじまえ。

 まあ、口が悪いね君は本当に口が悪い。口が悪いけれども批評ばかりしてなんの生産性もないじゃないか、まだクソをばき散らしているホームレスの方が清掃人の仕事を増やすためにちゃんと生産しているじゃないかと、のたまってみてもしょうがない。要するに、欲望がないのだ。欲しいものがないのだ。だから、デフレなのだ。ものが売れないのだ。ものの耐久性を減らすしかないじゃないか。生活必需品は1年で交換するようにすればものは流れる。ものが売れれば、その分生産するのでお金が回る。お金がよく回らずに、特定のとこばかりに集まるので金を奪い合うゲームが始まるのだ。ゲームだからどんなことをしてもいいのだ。ばばあからキャッシュカードを盗んで暗証番号を聞き出して銀行で降ろしても構わないし、親戚を精神病院にぶち込んで青年光景人にでもなって代理で銀行から金を引き落としても構わないし、とにかく金がものをいう世界というところに生きていると、どうすれば金を引き出せるのかばかり考えることになる。要するに、金が流れているところに乗っかる等スタイルでは到底勝てないのだ。だから、自分で何か発明でもすればいいけれどそんなことはしない。研究をして顔を治す薬でも作ればいいけれど、それは金になるが人間から死ぬ権利を奪っている。死ぬということは、次なる人がそれを受け継ぐということだ。新聞雑誌は、追悼追悼とお祭り騒ぎをするけれども、ずっと居座られても困るのだ。俺が若い頃はもっと働いてもんだというのも、聴き方によっては頑張れという言葉でもあるし、頑張っているのにも関わらずそんなことを言われるとぶち殺すぞという思考にならないわけもないのだ。一番怖いのは暴力性を内に秘めていることに気がつかない輩だと思っているので、私は内なる暴力を認識してそれを発動しないよう制御している分だけ少しはマシであると思っているのだけれど、どうだろう。一体どうして今の日本人は、つまらない論説ばかり弄って何も自分から考えて動こうとしないのだろう。巷に溢れる啓発本を読んでそれに満足すれば十分かもしれないkが、それから自分の思考が動き始めることがあるのかどうか私にはわからない。それについて何か答えを出せと言われれば、やはりプラトンを読めということになるがプラトンの想起説がピュタゴラス教団の影響を受けているなんてことを言って見ても誰も聞く耳を持たない。そこから類推して、どんな啓発本も古典の類推でしかないとうことに気がつかないはずはないと思っている。文学に制限がなくなればきっと、文学の新しいスタイルは生まれないので、自分ばかりが読むために書かれた書物ばかりが増えていくであろう。要するに、日記というのその人を思考を知ることはあっても決して出会うことはない。それに出会ったとしても、それは洗脳するための思考の材料でしかないということだ。

 なぜ洋書が読みやすいのかというと、具体的な例をもっともらしく引用しているからでそこに自分の感情が一切入らないので万人に受けるのだ。

 例えばこうだ「僕は昨日街を歩いていたのだが、ひどく暑かったので喫茶店に入りコーヒーを頼んだ。そして、椅子に座ってコーヒが来るのをじっと待っていると、湯気を立てたコーヒーが机に置かれた」

 なんと、自分がないことだろう。日本人ならこうはいかない。自分の感情が入りまくっているからこんな簡潔なスッキリとした文章にはならない。日本人の場合必ずと言っていいほどに、感情的な判断がすでに文章にある。

 「僕は昨日街を歩いていたんだ。しかし、とても暑かったので一軒のコーヒー屋に入った。そこでコーヒーを頼んだら、ホットコーヒーが来た。なんて気が利かないんだろうと思った、と同時に、自分がしっかりと注文しなかったことを恥た」

 これである。これは、問題解決型の文章なのでちっとも味わいがない。接続後も使われているの、何か弁論大会でも始まるのかと思わされるほどだ。それくらいに、感情が入っているのだ。

 こうして僕は、焼け石に水だと知りながら生きることにした。とかいってみても、馬鹿らしいじゃないか。日本人の小説家が引きこもり状態なので、当時の社会状況を小説にするのではなくて、昔の説話物語を改変して短編にしたのが芥川龍之介だ。彼が外に出ていた証拠は何一つないし僕の妄想が裏付けられることも決してないだろう。これになんの意味があるだろう。意味もないけれど、喋って見たいことならいくらでもある。要するに、何かを目的に話すのならば人を騙すことになるのだ。そんなことをしていいものだろうかと思わずにはいられない。ないものをないというのが論理的ではないだろうか、それをあるもんだと言い張って結局はケムに巻いてあったけどなくなっただとか言い始めるのだから、本当に不誠実な世の中だと思わずにはいられないのだ。

 

日本語ウィキぺディア記事のいやらしさ 

マックス・フェルスタッペン - Wikipedia

 

 

レッドブルの若手育成チームであるトロ・ロッソではハイメ・アルグエルスアリダニール・クビアトが19歳でF1デビューしたが、彼らは欧州の法規上成人である。しかし、フェルスタッペンはデビュー発表時点で未成年の16歳で、公道の走行に必要な運転免許証が取得できないばかりか[3][4][5]、北半球圏で馴染みのある表彰台シャンパンファイトにすら参加できない[6]フォーミュラ経験は実質1年という異例の抜擢であり、最高峰カテゴリにおける若さや経験不足を懸念する意見もあった[7][8]

2016年以降、国際自動車連盟 (FIA) はスーパーライセンスの発給要件について、年齢の下限が「18歳以上であること」「自動車の運転免許証を取得していること」「最低2年の下位フォーミュラを経験していること」などの項目を追加したため、これがフェルスタッペンの影響を受けたものとみられる[9]。そのため、フェルスタッペンの満18歳未満時に記録した「最年少記録」は発給要件が再び緩和されない限りは更新されることはない」

 

 

 要するに、現在最年少でFIAスーパーライセンスを取得しているってことだろう。これが破られるためには云々カンヌン。F1ドライバーを目指す上でラインセンス取得の最年少記録を破るのが目標なギミックな奴が日本人だよ。

 英文に記事ではな、どこどこのレースで何ポイント獲得したとか、惜しくもエンジントラブルでリタイアしたとか書いてあるんだよ。

 この違いはなんだろう。日本人は空気を読むことに長けているから必然自己評価する際に他人と自分を比べてしまう。もちろん、他人にすべての面で勝てるわけがないので諦めてしまえればいいのだが、なかなかそうもいかないので勝てそうなら相手を出し抜き油断させて互いに笑顔で足を引っ張り合うから、イライラしたり、開き直って如何しようも無いおっさんになりマナーは破るためにあるんだと解釈して、今までの他人を気にしていた自分から変わろうと他人をさらにきにするようになる精神構造を持っている。これが農耕社会で培われ今でも残っているのならばそれで伝統であるから、大勢の見知らぬ人たちは何もこの精神構造を疑うことなくアメリカに仕込まれた自己責任論で孤立していきますます同調圧力にすがりつくことで生き延びるなんとも哀れな人間たちだと思わずにはいられない。

 日本では仏教が流行るが、仏教の寛容の精神を日本人が持っていれば仏教なんか流行らないのだ。寺社仏閣は神聖な場所として認識されているのであるが、現実と区別し現実というよくわからない世界では相手に厳しく自分に優しく振る舞い、競争相手を正面切って闘うのではなく周囲から地固めして一斉に攻撃する手法が用いられる。

 要するに、仏教が日本で流行るのは仏教的精神が日本にないからである。敷衍すれば、仏教が流行らない欧米では寛容の精神があるのかと言われれば、おそらく欧米は他人を出し抜くことにさほど抵抗を感じていないのだろうから仏教の寛容精神は相手に寛容を求めるのではなくて、自分が規範となり相手に寛容であろうとする態度をとるだろう。

 私は、仏教的規範を身につけて自らが寛容の精神を身につけ他人に優しくすることが大事だと考える。しかし、先ほどの記事のように、日本人の人物評価は基本的に比較である。仏教の寛容の精神がいかほどに役に立つだろうか。TOEFLのスコアは死んでも残るが、寛容の精神は死んだら残らない。東大卒の肩書きは死んでも残るが、寛容の精神は死んでも残らない。

 情報として残るものを評価の対象にしているから、現在を把握できないので伝統に走っているのが少し前の日本人の大衆意識が右傾化した理由の一つであろう。要は、他人が自分に危害を加えてくるかこないかを見極める目が優先して、自分が他人の行動規範として動こうとする意識がないのだ。だから、気の合った仲間とつるんで互いに「お前は変わらないな」と慰め合いながら、堕落して、不平不満や愚痴で繋がる間柄になるのだろう。

 私はこのような繋がりは避けたいのであるが、他人の不満を聞くことは私が相手に不愉快な思いをさせないために知っておくべき情報でもある。不平不満をいう人間は相手に対して接し方を強要しているようなものだ。不平不満は十人十色なので、結局はキャリオーバーになり多くの人とは付き合えない。

 つまりは、友達がいてもいなくても関係ない。相手をマウンティングして精神的に安らぐことにいつか歪みが生じて老人になった頃若者をいびり始めるの時間の問題。人間みな爺さん婆さんになり顔に皺ができて腰は曲がり尿もれを起こし始める。脳みそはボケ始め動作がゆっくりとなる。

 要するに、イキってる奴らもそのうち糞尿垂れ流しになるのだ。

 この表現がきついだろうか。あなたは現実を拒絶していたのではないか。それとも、現実とは今この瞬間をいう刹那的な出来事のことだろうか。それならば、現実主義者と言われる人間は視野が狭いと言わざるおえない。

 そのうち台風が来るのに、今は晴れているから大丈夫とテントを張って寝るようなものだ。大地震が来るとわかっているのに、自分が生きている間は大丈夫で新築の家を建て三日後には全壊である。

 現実を本当に見ている人間なら今この瞬間がその前後の時間によって構成される非現実的であることに気づくであろう。遠い昔に身にしみて獲得した日本語が今この記事を読ませている。今この瞬間が成立しているのは遠い昔の時間により構成されているとはそういうことだ。人を殺せば下手すりゃ死刑だ。これも、未来に起こる出来事である幻想が今の現実を構成して「汝人を殺すことなかれ」となる。

 仏教は、一瞬を現実でありすべてであると錯覚する人間に、現実がいかに構成されているのかを教えてくれる。今だけを考えて生きているのならば、友達と仲良くする必要はない。何気ないひところにブチギレて殺してしまえという思考がほとんどあり得ないのは、これからも友達でいたいし自分が牢屋に捕まって不自由な生活を送りたくないからなのだ。

 

過去や未来が今を構成している。そして、過去も未来も幻想である。その幻想を作り出しているのは現実の今である。したがって、現実は、幻想である過去未来から構成される幻想である。

 

 我ながら狂っている、馬鹿げている単純すぎる論証が足りないそんな妄想はだれでもしているお前がそう考えなくちゃならない現実はお前にとって辛辣であるからそう考えるのだろう等々と周囲はうるさいだろうから一言言っておく。

 

 "冗談ですよ"

 

 その前に、だれもそんな話聞こうともしないだろうな。これに対して反論するとか、真剣に考えるとかやめて、ただ共感できる失敗談ばかりを求めているのがネット普及により掲示板やSNSにハマる人たちが持っている一種の下劣な快楽の一つであり、下劣である自分を投影し皆で支え合う精神的ネットワークを構築しているのも、ある程度確かであるように思われる。

 以上2019年からレポートしました。