アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ネットでロムることの恐怖感

 基本的にネットの記事は有料の市場に赴けば価値がなくなるであろう。皆しっかりとした情報筋のものしか読まなくなる。匿名の妄想が入り乱れる誰が書いたかも不明なネット記事が今は無料で読み放題である。おかげで情報の質は低くなった。これは相対的に低くなったのではなく元から低いことがわかった。これが無駄である。ネット記事は我々から失敗を奪う。新聞記事を鵜呑みにしてまじないにかかり行動する気力を削ぐ。経験を先取りして我々の感じ方を拘束し思考を大いに抑制させる。いわば、ネット記事はくだらない殺人事件をくだらないと思っていながらも読み手に読ませる依存性を毎日起こる事件を記事にすることで増長し続けているだけなのだ。(今はかつてないほどにニュースに人々は敏感だ。スマホがあるからだ。もし、スマホがなければ誰が毎日起こる殺人事件なんかに興味を持ち知った風な顔して高齢者ドライバーの免許返納について考えただろうか。ギャルはどうしたら、ギャルっぽくなるのかについて考えている方が有意義であるはずなのに、ギャルまでニュースを読み常識人になったつもりでいるからさらに厄介なのだ。外れたままでいいのだ。)

 文字の発明が記憶力の衰退をもたらすならば、ネットの普及は記憶を必要としないであろう。機械が人間の仕事を代行することの是非ではなく、電気的つながりである脳回路が外部に露出し電線となっただけの話で、電気が止まれば人間は有無を言わさずに生活を中世に戻すことが可能なのだ。否、中世の時代に培われた生きる知恵や力を現代人は失っているのでそれは不可能であろう。中世よりももっと前の原始時代に戻るかもしれない。問題は、現代的な感覚をどれだけの長い期間保持できるのかだ。原始時代に人権思想を蘇らせることは可能だとしても、電気がなければ人々がどう動くのか、誰も電気なんてなくならないから考えもしないので、想像がつかない。私もだ。

 要するに、ネット記事を受動できに読む場合、くだらないネット記事をや思想の根拠に据える場合が多く、「ジャンル」という最低のカテゴライズで美容なら美容ばかりの記事を読み、バイクならバイクだけの記事を読む。興味ある記事をまるで母親が眠る前に読んでくれた子守唄のように疲れた脳を癒す歌のような感覚で読んでいるのだ。それにしては、ノイズが多すぎる。下世話で役に立たない。道徳的でも非道徳的でもないが世間の基準を匂わせ自らの行動を省みる鏡のような存在、それがネット記事である。大衆化された新聞は、内容が下劣になる。それは仕方がない。新聞の読む人たちの好みが大いに変わったのだ。厳密に言えば、芸能ネタに興味ある読者の割合が増えたのだ。

 繰り返すと、ネット記事は自らの思考の裏付けとして存在し、都合の良い自らの主張を後押ししてくれる記事しか読まないので結局見識が狭くなる。物事を一面的に見ることしかできなくなり、柔軟な思考は白骨化して、テレビに出てくるコメンテーターのつまらない笑いに付き合わされそれに笑わなくちゃならなくなったのだ。家の中まで世間が追いかけて、いちゃもんをつけてくるのだ。正気の沙汰ではない。暗闇が欲しいくらいだ。

 ネット記事を根拠にした時節は、面倒な検証の手続きをすっ飛ばす。自らの意見にす多くの他人は興味を示さない。意見に託した自己は無視されそれにキレて不満顔である。そんな人たちが増えてきたように思われる。それは特に若者顕著である、知らない人に話しかけるようなことはせずに仲間と幻想的な世界に戯れて決して本質を追求しようとしないのだ。これは、幸福であるとは言えない。

 仲間を作り自分に都合の良いことを言う人たちを周りに集め、ネットの記事もそうで都合のいい記事ばかり読んで、そして、それでいいのだ。悪くはないのでそれでよしとする。その態度が続く限り不満タラタラの愚痴を口に出さずとも顔面に表して不幸を周囲にばらまき続ける。世界の変質していることを如実に表現している。そもそも変質した人間たちが世界を共有しているのだから、世界は変わり続けるしかないのである。そこに永遠の価値があることすら考えられず生きている。かなり遠回りをしていると言って善い。思考の面では今の人は昔の人の足元にも及ばない。想像力はどん底である。ただ、ロボットに仕事をさせるプログラミングの技術と一億総コミュ障のJAPANESEがチームワークだとか、絆だとか言って極寒のテンションを信じているだけであろう。

 言葉は通用しなくなり、誰が言ったのか、発話者はアスリートか、会社の重役か、それによって言葉は実在性を持つ。相手の話ではなく相手のステイタスが大事なのだ。東大卒であったり、元通産省の官僚であったりと。だから、大虐殺を実行したアイヒマンヒトラーというカリスマに命令されたことを忠実に実行することに喜びを感じたであろう。ヒトラーの言葉は、実在の言葉だったのだ。確かにアイヒマンの無思想性があった。ただ思想は、ヒトラーにだけ持ち得た。ヒトラーにだけ持たせたのだ。誰がそうしたのか?大衆である。大衆がヒトラーを産んだのである。ヒトラーをカリスマにしたのも大衆である。国民である。

 大衆の幻想的期待を背負っていたはずのアイヒマンナチスの高級官僚としてその名に値しない凡庸な人柄であり、無思想であり目の前で行われる虐殺をヒトラーの目の前で忘却していたような人物がナチの官僚であったように、ちょうど河野太郎がネット民の大衆の群れに気に入られてそれに河野太郎自身も薄々気づいて寒いツイートを連発しネットの匿名記者がそれを記事にしてネット民に理解があるように記事を書き、それを読んだ大衆は河野太郎を信じるだけで、決して自ら勉強しようとはしない。信頼という自己責任の免除規定を行使し、「そんな人だとは思わなかった」という記事が出てくるのをワクワクして待っている馬鹿なのだ。

 人々の忘れた頃に世界は度を超えて調子に乗る。

河野太郎が嫌いだ 河野太郎とネット民

 私見で申し訳ない。書くこともないので河野太郎を引き合いに愚痴ろう。

 河野太郎が嫌いだ。ネット民が河野太郎好きらしい。ツイッター漬けでまともに本も読まない顔の見えないツイッターに実在性を感じるような奴らが河野太郎の「強気」な態度に非常に好意的なのだ。それが、情けない!

 外国でも堂々としている河野太郎外相は随分と日本国民から歓迎されているらしいが、私はそうは思わない。堂々としているだけで、深みを全く感じない。顔は真面目くさった顔をしているが、あんな顔見ているだけで疲れる。こいつは多分自分に酔ってるタイプだろうからちょっとイタズラ仕掛けても、多分自分の懐のでかさをアピールしに来るだろうから執拗に挑発してキレたところで、面白みもなくジョークも理解していない河野太郎のそれを、「本心」「真の姿」として認定させてやりたい。

 要は、自分の意見が言えず不本意であるにも関わらず迎合し、不満タラタラのネット民の理想的自己の姿の投影体である「河野太郎」とかいうただの鏡を割りたいだけなのだ。自分の姿と向き合ってそれを受け入れていこう。情けなくてもいじゃないか。ただ、河野太郎が外交の場で堂々としている姿に安堵しきって自己認識がお留守になっているネットたみは今日もクソ記事をばらまく同じネット民の住人たちが垂れ流した糞尿を便器の下から口の中に取り込むのだろう。クソも味噌もわからないネット民だから、河野太郎も楽だろう。ちょいと英語が話せて、姿勢良くして、あの、しかめっ面でたまに笑っておけば馬鹿な大衆の最も最下層であるネット民の票なんてちょろいちょろい。

 

最速で書く

 近頃は問題を設定しないという方向に社会が動いているような気がする。例えば、殺人事件が起きたとしてその事件が何故起きたのかを探ることはしない。殺人は毎日発声しているので一体どこで今度は殺人事件というアクシデントが起こったのであろうかと場所的に報道するだけになっている。また、森かけ問題も裁判になったことで一旦報道に関して憶測ばかりになる可能性から報道しない用意なっている。

 本来ならば殺人事件の捜査は警察がするのであるからマスコミが連日連夜同じ事件を放送するのはお門違いかもしれない。また、日々新たなニュースがあるために同じ事件を扱ってばかりもいられないのであろう。それに、裁判になってしまえばあとは裁判結果を待つのみであるから報道機関が取材する必要性は特にないのである。いわば報道機関は先例に従って報道するニュースを毎日日替わりで提供すれば良くなったのだ。

 一方で、取材の難しさもある。皆無口になり喋らず言葉に責任を持てなくなっており、平気で嘘をつく人がいれば平気で騙される人も大勢いるので変に取材することで事件が複雑化しまた記者の労働環境も長時間必要になる取材はやはり報道機関で働く者たちが使命を持って報道するよりも当たり障りなく批判のない取材を心がけるのが良いのであって、他の報道機関を出し抜くといった気概はもはや発生せずすでに多くの視聴者は多くの読者をもち慣習的に広告塔の一つとなっている報道機関の経営の仕方にも関わる。

 しかし、従業員の意識改革を本来は自らが主体的に行い自らが社会という現象に立ち向かってあるときは視聴者を味方にあるときは視聴者に挑戦的な報道をする必要性があるのではないかと思う。現在はスマホで気軽に世界中の殺人事件の発生状況を知ることができる。殺人事件を報道するにも現場に行きレポーターを送って生の状況をできるだけ伝えることが使命であるはずではないだろうか。当然長い時間労働をしたくないという労働者の意見を反映して入社した途端やる気を失い取材もやめて一切間違いのない行動をしているから結局何も報道できずに真相を藪に放り投げて嫌なものを見たくない視聴者に媚も売れるから何もしないのがいいのだろう。視聴者は大抵バカだからセンセーショナルな感情を煽る扇動報道をすれば勝手に盛り上がり、何も報道しなければ事件はないものとみなされ結局は視聴者を井の中の蛙にしてしまう。報道機関が視聴者を鍛え上げる義務は法的に全くないわけでもないが、要するに低いレベルの教養放送にとどまり芸能人の人生哲学なんぞを垂れ流し盲信させ批判的な思考を本来もつべき報道機関が歪められた事実をほぐすことなく事実として報道してそれに関して歪められたと知ることができないというのならば、報道機関として無責任である。

大前提として人間は間違うし過ちを犯すもの

 高齢者免許返納で少しでも不安があれば免許を返すべきだとか抜かすバカがテレビでものをいう人間のレベルなのだから、テレビなんて本当に亡くなってしまえばいいのにと思うのだ。福島の原発事故でも結局テレビは芸能人が復興を支援してえらいといことくらいしか言えなかった。ちょろっと特集を組んだかと思えば議論はさせず、視聴者に匂わせるばかりで決して意見を言わないけれど、匂わせているのでなんとなくいいたいことが伝わる。実に日本的なやり方だ。悪いことを悪いと言えない。

 なぜか、なぜ言えないのか。それは間違ってはいけないからだ。テレビは間違ってはいけない。報道は間違ってはいけない。確かにそうだ。しかし、人間は間違うものだ。それを恐れてものが言えない。免許を返納するのは老人の勝手であると芸能人は言えない。スポンサーが必要だからものが言えない。視聴者に媚を売らなくちゃならない。かと思えばだ、公共放送も同じで免許を返納させようとばかりする。

 本来テレビは中立的立場であるべきなのだ。それにもかかわらず、視聴者におもねって視聴者の好む味付けにして視聴者に迎合しているから視聴者も見なくなる。当たり前だ。視聴者という人間は自分が何を見たくないのか知っているからだ。わざわざテレビが見たくないものを報道しない必要はない。

 

インスピレーションあいすくりーむ

 いつの時代もいい時代っていうのはないのだから自分で暮らしやすいように工夫をしなくちゃならない。その工夫を怠っているから世の中にありえない事件や事故が引き起こされるのだろうが、確かに運命としか言いようがない事案もあるだろうがやはり因果関係を辿れば何かしら原因を見つけなくては気が済まないように人間は作られているのだろうか。

 池袋でじいさんが母娘を轢き殺した事件においてこれが、単身者がふたり死んだのであるならばあまり大きな扱いはされなかったはずである。近頃は埼玉でヨロヨロの爺さんが包丁振り回して警察官を挑発し発砲されて腹部に見事命中し死んだ。

 私は思うのだが、母娘の命を重く身過ぎているように思われる。テレビの視聴者はその母娘と爺さん婆さんだから互いの中を悪くさせるようなことを流すなとは言わないが、世論もおかしくて結局は命の重さという点で差別している。上級国民という言葉も世論から出た言葉でメディアは池袋で事故を起こした爺さんを元通産省なんちゃらかんたらと呼んでいる。では、警官に発砲されて死んだヨロヨロの爺さんは元なんだったのだろうか。職業を転々としてまともに働いてもいなかったのかもしれない。それを考えるだけでメディアは世間のご機嫌取りであり結局は真実を求めて報道する姿勢よりもネットで拾った情報を組み合わせて取材と抜かすのは、怠慢でしかないのではないか。そして、それをなんとも思わない視聴者は既にテレビを離れてネットで罵詈雑言の言い合いで互いに疲弊し傷つけ合い嘘くさいお悔やみの言葉を死者に垂れ流すのだ。ネットの普及はものを考えない人たちの思考を表面化させ、彼らがいかに妄信的であるのかを暴露しないせいを促しても決してせず、テレビもそれに符合して自分の意見を曲げないではっきりとものをいいそれを吟味もせず相手を威圧するような人ばかりを写すようになった。総じて、この世の中が住み心地の悪いことを教えてくれるのがメディアであり結局は実地で知りえた情報ではないのでフェイクをリアルに捉えネット利用者ならびにテレビ視聴者はメディアや互いの疑心暗鬼により疲れ果ててものも言えず考えられない状況に陥っている。

 この状況を私は非常に危惧しているのであるがここに解決策を書くのであるのならばもう一度活字という距離感に戻って欲しいと思うのだ。映像は必ず見ている人間を活字以上に誤魔化す。映像も説明がなければなんの意味もわかりはしない。ニュースもアナウンサーのテンポに合わせてみなくちゃならない理由がどこにあるだろう。昔は朝の朝刊を見ていればよかったが今はすぐにニュースがポケットに飛び込んでくる。これは不幸である。ニュースから離れられない生活を送っていると人間はどうなるのか。常に危機意識を持って生きている貧乏人が周囲に当たり散らしたり怒り肩で歩いていたりするように、心の余裕がないので忙しなく動き回り不幸を助長させているに過ぎない。物事を正面から見るためにネットは確かにその役割を担えたけれども、多角的に見るには一度その正面から見た情報から降りなくてはならず視点を変更しなくてはならない。それに気がつかないわけではないはずなのだ。

 ツーリングに関してもそうだ、行きたいところがあるけれども仲間が行きたくないというのなら無理に誘うのはやめにしたらいい。本当に不安がある人間程よくつるむからこの世は非常に暮らしにくいのだ。本当に人と親しくなれる人ならば、仲間を作る必要はない。仲間が必要なのは、気を許した仲間同士にだけ本当の自分とやらの幻想を互いに担う暗黙の約束をしているだけの話だ。つまり、幻想にしがみついて自己を知ろうとしない弱い人間たちが仲間を作って社会に迎合するのだ。だから私は思うのだ。日本語もそろそろ限界かもしれないと。

他人を見るように強制される社会

 社会と書いたからには無差別に相手を選んでお前もそうだろう社会に生きているんだからという巻き込みの呪文をこの表題につけてみた。

 私たちは社会の中で生きているけれども、社会の外に出ることもできる。それは夢の中だ。夢の中だけが完全なる社会の外でありずっと眠っていたいのは疲れているからではなくてただ現実を本当に忘れ社会の外に出る憩いの場であるからだ。

 以上の理由から導き出されるのは意識化された社会がいかに人間を疲弊させ社会の外へと外へと生きたがるような衝動に駆らせるくらいに過ごしにくいのかという結論であるが、果たして一体何がそうさせるのだろうか。世の中に見たくないものがある。それを見なくちゃならずそれについて想像されうる事実が甚だ私たちの描く社会とは違って異質であるからこそ社会の外へと逃げ出すかあるいは見て無ふりをして自分の持っている幻想を壊さぬように用心するしかないのである。けれども、それでいいのだろうか。第一本人が疲れるではないか。見たくないものを見てしまうということは自分の認識が変わるということだけれども、認識を信頼している時点で既になんらかの吹き込みがあるわけである。その元々持っていた印象やら認識が間違いである事実を指摘されるのが何故不快なのであるのか。また、それらの間違った認識を正すために現実を見ることに意義がないとされ今は見たいものを見てみたくないものはみない、したくないことはしないですべきことだけをするという他人の目を気にした行動ばかりが流行るのは日本に限らずテロリズムが横行する西洋社会においても相手を見るということ、他人を気にしないでいいとする自由、相手への無関心を貫き都合の良い解釈をする自由を制限されているのではないだろうか。それはもっぱら、身体に危険を及ぼす相手であるのかの見極めをしなくちゃならない状況においてどうすれば適切に変人を見極められるのかの訓練を私たちはしているのかもしれない。テロリズムの横行は、社会に不安をもたらすがその不安の前にあった安心が産んだのがテロであるのならば、社会は常に不安に満ちていることになる。つまり、テロリズムだから不安なのではなく社会がそもそも不安であると感じていた自分についてテロリズムが蔓延し人々が相互に不信感を募らせることで互いに自分を見つめる契機になるのだろうと思う。