アウトプット

相手の視点に立ってみよう

うんこ

 神童は自由である。勉強する時間を他のことに当てられる。思うに、資格試験は何もすることのない人間が暇つぶしにする者だと考えられる。何か熱中することがあればそれをすればいいのだ。子供の頃に欲しかったおもちゃが大人になったら全く価値を持たない。子供も大人も関係ない。人間の欲望とはそういう者なのだろう。子供の頃に欲しかったぬいぐるみと大人になってほしいレクサスはおんなじかもしれないのだ。金の問題になる。金があるから、欲望を制御することができる。人間は欲望とお友達になれば非常に元気になる。全ての行動の源泉が欲望であるからだ。その代わりに、欲望に群がるお友達は皆冷酷で非道である。自らの利益のためなら他者を利用することも日常茶飯事である。それならば、欲望がない人はどうかというと相手に無関心でコミュニケーションをとることが不可能だ。話もできないような相手といるのは苦痛なので、欲望がない人は孤立することになるが本人はそれでいたって普通なのだろう。そうではない、人間は孤立なんかしてはいけないという輩が多い昨今だから、おせっかいが次第に無くなりつつある現代おいて孤独死が蔓延するのは、孤独死が悪いと思われているからなのだけれども、人間無理心中でもしなければ大抵孤独死するじゃないかと思われるのだ。苦痛に呻いている姿を近親者に見せることが孤独ではないという証であるのならば、子供の頃に泣き喚いて母親の足元でも引っ張っていたうるさい子供と変わりはしない。子供を可愛いと思わない親が増えるのも頷けるのだ。自分がコントロールできるようなおもちゃでなければ楽しくないのだ。子育ては男がする者なのかもしれない。女は悠々自適に子供を産んだらどこかいけばいいのかもしれない。私にはそう思われる。女に育てられることのメリットは女から身を守る術を身につけることができるということだ。女がいなければ男は必ず女を欲するようにできているのだ。そうでなければ、バランスが取れない人生になってしまい終いにはトイレで男とセックスをした挙句にエイズに罹患して病院にも行かずに畳の上で一人死ねば孤独死である。そういう人生を積極的に歩もうとする必要はないが結果的に孤独死をするのであるのならば、死ぬことじがいたフィクションであるために人間が持つ最後の妄想の源泉である死について、これを制御することができたのなら人間社会から問題がなくなってしまうのだ。社会問題を考える際の前提は、問題がありながらも生きて行くことだ。人間が生きながらえながらも、問題を解決するために今日多大なコストと労力が重ねられてしまいには労働過多で死んでしまうのだとすれば、どんな解決方法も死ぬまでの時間稼ぎと考えらることができなくもない。では、生きることは無駄かと言われれば非常に難しい、無駄という概念は、自由闊達に生きるために発明された概念なのだから。数千種類ある帳簿をさっさと片付けて遊ぶために電子計算機が作られたわけだけれども、その計算機をコンピューターにして何か遊ぶためにゲームを作ればそれは労働であるのだ。労働と遊びは結局は本人がどう重のか次第でその様相を変えてくるのだ。だから、いい人は自分をいい人だと思い込むことでしかありえない。相手にいい人だと気に入られようとしている人はいい人なはずがない。これだけしてやったのに、と思うくらいではまだまだいい人ではないのだ。信頼していた人に裏切られ、傷ついても死のうなんて野暮なことちっとも思わないで、もう死んでいるつもりで淡々と気楽に生きている幽霊がいい人なのだ。何があっても実態を有さないので浮遊霊だ。地面から足が浮いているかもしれない。はや歩くの人はおそらく鉄板の上を歩いてるのだろう。熱された鉄板に耐えられない皮膚を持った優しい人柄を隠すことはなかなかできない。人間は人間について語るのが好きだ。人間はどうあるべきかという倫理が大好きだ。人間では煮物たちにいかなる仕打ちを与えるのだろうか。私には一向に理解できない事象が多すぎるとわめいて見ても、考えることの大切さをいくら問うて見ても人間は忘れてしまう生き物なのだ。忘却こそ人間性だ。老人が人間だ。同じ間違いを繰り返すのが人間だ。キャリアなんて糞食らえ。不具者じゃないか。それしかできない。不具者じゃないか。俺はそんな不具者にはなりたくないね。専門家なんて真っ平御免で。おかげさまで人間は言葉を失い、主体性を剥奪され専門家が活躍できるようにお膳立てをしてやらなくちゃならなくなった。バカみたいな話だ。専門家は神様になってしまった。神様が近くにいると人間生きづらい。うるさいのだ。ああしろこうしろと。では、やっちまうか?ナイフで突いてやるか?ゴリラの持つワンリキぐらいの力で。死んじまうじゃねえか。死んじまったら話すことができない。主体性もない。見たくもない血を見る羽目になる。それこそ専門家に頼むしかない。ということになるのである。他にも、他人が嫌がる話をする人も悲惨だ。酷い他人にあったものだ。なぜ、嫌な話があるのだろか。話すことで生きているのだ。それを否定するのだ。つまり、主体性を殺しにかかっているのだ。身体を有形的に動かなくするのとどう違うのか。普段幽霊なんて信じていないようなツラしている奴が、犯罪被害者になるとなくなったやつのために生きなくちゃと魂の存在を信じるかのように、意志の存在を信じるかのように。いいたいことも言えない世の中は地獄であろう。しかし、いいたいことを聞かされる世の中もまた地獄であるのだ。問題は、地獄から抜け出すことだ。おそらくそれは可能である。相互にコミュニケーションをとることができれば可能である。世の中には、一方的に話してくる人間がいるがそいつがコミュニケーションをとるのに長けているとは思えない。話すことで意味切られているのを本人は自覚してセクショナリズムを発揮して生き延びようとしていることもありうるのだから。話が間延びしてしまって疲れたそろそろトイレに行きたい。気持ちのいいうんこがして見たい。ただ、それだけのために生きてる。