アウトプット

相手の視点に立ってみよう

集中という快楽

 常に外敵を意識している状態は意識が散漫しており、不安を掻き立てられるが意識を一点に集中させ散漫な意識を殺せば自ずから快楽が得られる。意識の集中が高まれば没入感を与え次から次へと物事は進んでいく。意識の散漫は逆に注意を全方向に向けるが空間把握が時間の不在を観念で補うため不安が生じる。不安とは、恒常的な形態に現れる個別の物体の変幻自在な形態への法則性がない閉塞感に対する苛立ちであり、究極的に見出されない法則性を観測し続ける態度の煮詰まった永遠の凝固性への怒りである。不安は苛立ちであり怒りである。感情の定義は抽象的な語句を用いて己の言葉が持つ語感の多様性に目がくらみ他人理解の妨げになる。人間は必ず言語によりすれ違い互いに了解するには低い言語の統一性が必要である。言語を極めれば個人が現れ公共性における言語は個人を抹殺する挨拶であるから、日々他人との会話で自己を捨て公共的な言語の語感をなぞる徒労が自己を疲弊させる。究極は極論ではなく無意識へ通じる唯一の道であるから、論理的統一性や言語的な定義の積み重ねによる論証可能性を一切否定する。抽象的語彙の獲得により練られた観念は想像の根源であり凡ゆる形態は混沌とした抽象的観念を出自とする。

 

 要するに、私は何を言っているのか自分でもわからないのだ。と、書けばやっぱりそうかとうなづいてくれもするだろう。私たちは何か直感を失ってしまっているのだ。直観と書いてもいいだろう。直感と直観の違いはよくわからない。要するに、なぜ直観を失ってしまったのだろう。それは、賭け事が廃れているのと関係があるのかもしれない。危険を愛する男なら賭け事は凡ゆる場面に生じる快楽の園である。競馬で馬券を買うだけが賭け事ではない。一か八かで美人に声をかけデートに持ち込むのも賭け事である。曲がりきれるのかわからないカーブを高速で侵入するのも賭けである。世の中には賭け事が蔓延しているがそれに気づかない。特に、20代前半までの子供は安全感を保有したい理由から法則性を愛する。倫理、道徳を非常に重視する。両者は母の代理である。母の代理である秩序に従うのが20代前半までの子どもの生きるべき正道である。しかし、倫理も道徳も破壊されている場合もある。親の態度が曖昧であったり、子供の鋭敏さが親の態度の矛盾に耐えきれず秩序を偽であるとし、もはや拘束具でしか無くなる場合がある。秩序を与えることで子供は安定する。受験がなければ何年も子供時代を過ごせはしないだろう。肉体的な快楽が基準となり男女の交わりが増えれば出生率も多少上がりはするだろうと単純に考えてしまうのは間違いだろうか。世に言われる心理学が人間の本来の心の働きを捉えているのか、心理学が捕捉した心の法則性に従わされているのか区別をつけるのは難しい。直観は完全に個人の孤立の中に屹立している。排除でありながら共存する態度が直観である。直感は抽象的思考を源に具体的な五感に訴える対象を歪ませるよりも、五感に誠実であるはずだ。自己の神経の奴隷となり自らの観念が他者の共通観念に見出された集団的で標準的な観測機に一撃を食らわせる。観測機は製造年月日の再確認に迫られ、現代の時間から遠い遺物であり遺産になるしか価値のない時代錯誤の代物でしかないとそれを捨てる。いつまでもあり続ける観測機はないと仏はいうが西洋は普遍的な観測機を日々追い求める。是に於てすでに西洋の消費社会が東洋では単なる消費でしかなくなる。どうしてアルファベットがひらがなとおんなじであろうか。まして、物に対する態度もそうだ。物に神が宿る八百万の神々がひしめき合うこの国で、物には煩わしさがつきまとっている。