アウトプット

相手の視点に立ってみよう

萎縮

 世の中がとても薄く感じる。それも、私の感性ではない。他人のものだ。他人と自分を分ける境目を作る必要性がわからない。あまりにも論理に従いすぎて、それに気がつかないの自分に疲れ果てているのかもしれない。だから、感性がなくなっているのかも。感性がなにかなんてわからないけどね。本音を言えば、無駄にしたくない。感性を無駄にしたくはないんだ。だって、もう大いに無駄をしてきてるから。どうにもならないようなことを今更ああだこうだ言っても仕方がない。未来は暗い。でも、今は昼間だから明るい。台風のせいで湿気がすごい。冷房のリモコンどこいった。それが、私の感性だ。高尚なところはひとつもない。なくていい。何もない方がいい。持っている人への恨みかもしれない。持たざるものの嫉妬。それを保有している私。別に、可愛くもない。ないのだからそれでいいと、また論理的に開き直るしかないのだ。しかし、完成に身を委ねれば差別の世界だ。解決策はない。あいつは臭いから嫌いだ。あいつは太っているから嫌いだ。感性で世の中を生きれば、自分こそ嫌われる。社会に嫌われたらおしまいだ。しかし、社会に好かれるような奴は全員道化師だ。思ってもないことを言って、社会の奴隷になっているだけ。それを人気者だと囃し立てて嫉妬する。自分の方がもっと奴隷だと思っているから嫉妬する。外国人実習生の奴隷労働とかいって、結局は記事の閲覧数稼ぎ。タイトルで釣っといて、中身はうっすいのだ。タイトルクリック。中身はないけれど、タイトルだけが魅力的なのだ。外国人が奴隷にされている。かわいそうに。帰ればいいじゃないか。とはならないのが外国人実習生だ。こっちにも需要がある。だから、帰ればいいじゃないかとはならないのだろう。社会って奴は絶望的に私に興味がないらしい。興味のない奴らと付き合うのは苦痛でしかない。それに慣れてしまえば、社会は振り向いてくれる。待ってましたと、君がそうなるのをずっと待っていたんだよと手を差し伸べてくれる。援助してくれるのだ。ありがとうございます、と涙を浮かべて顔には笑みが浮かんでいる。今だって十分に社会主義国だ。下手に定義をするから言葉が意味を離れて実際を表現できないでいる。テレビは政府の広報機関でもある。最初に殺人、強盗、偽装、不倫、なんでもいい、タイトルで餌をばら撒いておいて、政府の政策をチョロ流しにする。全員が公務員みたいな社会じゃないか。あまりにも法律が多すぎて。規制が多すぎて。だから、イズムの時代は終わっているのかもしれない。社会を変えることはできないから、自分が変わろうよということ。自分が変われば世界も変わるだろうということ。変わることばっかり考えて、それもまたとてもめんどくさいように思われる。めんどくさいことばっかりしているうちに朽ち果てて死んでしまう。せめて、めんどくささを愚痴にして話す相手がいればいい。それが同級生だとか、同僚だろう。同じような境遇であるという幻想を抱かせるのが、同級だとか同僚だ。彼らの言葉をまともに受け取っていれば頭が可笑しくなる。もともと、私の頭がおかしいのだから、そう気にすることでもないんだろうけど。萎縮してしまわないように、なんとか思考を拡散させているだけの話。息が詰まりそうなほどだから、息を吸おうと野外に出ているだけのこと。それを責められるのは、お前何であの時死ななかったのかと問いかけるようなこと。世の中は、いい世の中を目指しているわけではない。いい世の中なんてない。いいなんてことは何一つない。世の中はなければそれでいいが。あるように思われている。世の中と言葉にするからあるような感じがする。でも、世の中と言って何か具体的なことを話し出すと途端に見ている世界が変わる。世の中は全体の最大公約数で抽象的な概念でしかないことを知るべきで、しかも、世の中なんて言葉が作り出した幻想でしかないのに、世の中のせいにしている。もっと具体化させれば、他人の視線だとかになるのだろう。しかし、具体化させるとあまりにも近すぎるので世の中のせいにして薄めているのだ。世の中が悪いといえば、そうだね、世の中が悪いということになる。お前が悪いとはまるっきり違うから。そんなわけで、言葉をどう扱うのかについて考えてみた。思考を萎縮させるような言葉を吐くような人間にはなりたくない。人を萎縮させて不平不満が解消されるわけではない。そう思うのだが賛成してくれる人もいない。賛成だけしてくれる人なら私が有名人になればいい。それだけの話だ。内容なんて誰も気にしない。タイトルだけの時代。中身はない。なくていいのかもしれない。外国人実習生奴隷労働の実態。タイトルだけで読む気は失せる。どんな気持ちで読めというのか。外国人とは。法律はあくまで問題解決の手段だ。仲裁の手続きでしかない。外国人である前に人間である。人間が奴隷として働かされるのは良くない。しかし、人間でも言葉も違えば肌の色も違う。言葉が違えば、幻想の世界の差異は大きくなるだろうという感覚。それさえ疑わしいのだが、言葉が互いにわからないのでは細かいところまでを設定して世界をメイキングする幻想を作れないのだ。世の中はうまくできている。まるで世の中が存在するかのように皆が動く。そのように動ける人間だけが真面目な人間なのだ。世の中なんてないと思いながらも、それに従って生きている人間だっているのかもしれない。未だに、外国人だとか言っているのが世界だ。利権が絡まないはずがない。最低賃金も設定されていないだろう。世の中がいい方向に向かっている時期なんてありえない。自分たちという幻想が作り出している世の中をいい方向に向けて作り上げていこうとする偽装ならあるのだ。私の欠点は、その偽装工作に感情が追いつかないことだ。今がいいと思えない人たちが集まって、今よりいい社会を作ろうとしている。それを素晴らしいとも思えない。徒労でしかない。それは自分がいい思いをしていたからかもしれない。ここまで来るともう分かり合えない。さいようなら、なのだ。