アウトプット

相手の視点に立ってみよう

楽しいこと

楽しいこと

1バイクに乗ること

2デートをすること

3ご飯を作ること

4外を歩くこと

5人から認められること

6海を泳ぐこと

7海で泳いだザラザラした体で助手席に眠ること

8文字に喜びを見出すこと

9猫をみること

10Aちゃんと過ごすこと

 

楽しくないこと

1不安なことを言う人の話

2真面目なことを言う人の話

3説教をする人の話

4ニュース番組のアナウンサーのしゃべり方

5集団の男女

6疲れること

7下品な人

8飲み過ぎた後の朝

9喧嘩すること

10嫌な妄念に取り憑かれ自由を失うこと

↑具体的に

抽象的にしか表現しようがありません。

 

具体化により抽象の悪魔にグッバイ

 

情報

 私たちが日々目にしているのは、マスコミの力の無さであろう。マスコミの前で人はよくしゃべる。自分の言葉が生に受け取れるのだ。マスコミを通して自らを見出すのだ。マスコミは世間である。世間に受け入れられるのが、幸せじゃないか。酸いも甘いも幸福に還元される。悲しくないのに泣いたり、面白くないのに笑ったり。嘘ばかりついて、人間関係を維持する。嘘が言えないのなら、寂しく一人事実と眠る。事実は人間の数だけある。しかも、人間の数よりも多い。言葉は、纏めるためにある。本来散らばる人間を言葉が束ねる。

 

事故告白の文章がなぜ難しいのか。自分を偽る言葉を多く使うのはなぜか。言葉が氾濫しているからか。玉石混交の言葉の中で自らの言葉は石にも宝石にもなる。時代の病か。病は根源的だ。毎日人間は病んでいる。虚しさだけが本当の気持ちだろう。楽しさも情熱も全て外からやってくる。自己から発生するのは虚しさだけだ。その虚しさの風の心地よさよ。

 

一人よがりになれるものか。言葉は事実を伝えない。言葉に意味はない。意味は自らが発生させるのだ。他が動いて自らも動く。自発性など夢だ。他が動いているのを見る目を養えるだけだ。

 

自己は退屈だ。しかし、楽しみも自己から生ずる。自分を感じるために他人が必要だ。他人は食われる。私は他人に他人の鏡を見せる。お世辞を言って、他人を着飾らせるか。喜ばれるようなことをするのが私は大嫌いだ。結局は自己の快楽に耽る姿。

 

常に死にたいと思っている。常にいきたくないと思っている。負荷がかかるのではなくて、同じ負荷に飽き飽きしてそれに喜んだり悲しんだりする嘘が疲れる。本当のことを言えば人間は衝突する。血が流れる。嘘を言えば自分が死ぬ。結構なことだ。私は自分が死ぬ方が気が楽だ。これが平和を望む気持ちだというのか。

 

人間は運動では痩せないが、気をつかうとすぐ痩せる。

 

 

読むべきネット記事なし

  ネットの記事を見すぎて頭がおかしくなりそうだ。自分の気持ちがわからなくなっていくのがわかる。感覚の伴わない実践が頭の中に増えてくる。もう何もかもわからないのだ。ネットの何が楽しいのかもわからない。物事を決めてかかっているものばかりじゃないか。どれもみんな物事を分かったつもりになって記事を書いているのがよくわかる。取材なんかしないでネットで拾った情報の寄せ集め。疲れた。だからどうした。不倫したからどうした。世の中の反応を見て喜んでどうする。もうどうでも良い。ネットなんかやめちまえば良いんだ。自分で考えれば良いんだ。ネットの情報は最終的には何の役にも立たないじゃないか。今のことを知ったとしてどうする。

自由

とーん、日が落ちて

空が真っ暗になれば

自由の音がきこえる

虫はなき、月はひかる

みんな眠って、私一人起きる

寂しささえ眠ってしまって

私一人起きる

自由は私に退屈を申し上げる

そして、悩むのさえ自由に

限界もなく、制限もなく

血を夢見る私を

自由は喝采する

風呂場で倒れて、血に浮かぶ

見上げた天井は、アクリル板

人間であるのを、やめて

肉体からさようならをして

さて、どこへ行こう

さまよえますね

私はいっこうに、暗い

ないもをねだる

今の自分を憎む

どこへ行こう

どこへも行けない

自由は、

水でもがく私を

助けてはくれない

死ぬのも自由

 

現代について

 人目をひくようなタイトルにはよく見ますが、あまりまともにかけているとは思えません。何年か経てば、色あせるような意見ばかりです。話題も、そうです。今はインターネットですぐに10年前の世の中の反応なんかを調べることができますが、わざわざそんなことを人間はしません。今ある対象について何か述べてそれを公の記事かなんかにするほうがよほど楽しいでしょうから。面倒なことは、他の人に任せて自分は取材して人間から得た情報で世の中を語るのです。ときに、それは間違ってもいません。しかし、間接的な情報であるのですから、その情報は私たちを欺くために流されているデマの可能性だってありうるわけです。例えば、覚せい剤を打たれて意識が混沌としているときに、警察官がやってきて、それがゾンビに見えたから逃げるといったように、デマは、デマを流した人間の思うように情報に反応する人間に対して非常優しいのです。それが、世間です。学歴が良ければいい会社に入れる。いい会社ってのは、そこで働いている人間にとって快適であるだけであって、その下請け業関係者の努力なりがあってなりたっているわけですから、だれしもいいところに入りたいと、トイレの掃除なんかしたくないと思っているわけであります。そして、そのような仕事をする人間を無視するのです。なんと悲しい話でしょう。私は今でも忘れないのが、道路の交通を仕切っているおじさんの肌の黒さからかその苦労を思いそのような仕事にはつくなよと言ったある人の言葉です。職業により人間を差別するのはよくありません。自らに偏見があるのを知らないで生きるのほど苦しいことはありませんから。今の時代、本当に偏屈です。過ごしにくくなりました。少し前の記事に、韓国の結婚式で友達をお金で雇うという記事が流行り、私たちはびっくりしましたが、もはや、遊び友達をレンタルできる時代です。要するに、文化は均質化しているのです。もう、外国なんんてどこにもないのかもしれません。とにかく、アメリカ、欧米、並びに韓国とは同質化しているように思われます。私にとって面白いのは、断然東南アジア並びに南アジアです。景色から何から違います。文化も文字も違います。タイ語は非常に難しい言語を持っています。私はタイ語の文字の区別がつきませんから。分からないことに首をつっこむのが私の生来備わった厄介な性格です。わかっているようなことが、その分あるのかもしれません。私は、わかっているようなことを分からないと言ったほうがよっぽどマシなように思われるのです。何が良くて何が悪いのか私にはわかりません。では、人殺しは悪いのか悪くないのかという質問がありますが、例えば、それが北朝鮮の装飾であれば、英雄になるのではないでしょうか。もちろん、その後戦争に突入すれば余計なことをしやがったとなるのでしょうが。しかし、目立ちもせずのろのろ歩いている人を殺すのはどうでしょう。これは、殺されて悲しむ人がいるからダメです。しかし、金正恩が殺されたら悲しむ人もいるでしょう。悲しむ人を基準にはできません。要するに、善悪の判断で人間は動いていないということです。あれが良いとか悪いとか、後からのこじつけ次第です。もし、あなたが素晴らしい作家であれば過去の思い出も全て楽しいものにできるはずです。記憶は何度でも再編集されるのですから。記憶はいつも、編集されるのを待っているのです。なぜでしょうか。思い出す必要があるからです。その必要性は誰の要請によるものでしょうか。多くは自分の欲望を減退させること、そして少しの自慢話でありましょう。人は自慢したがるものです。相手の話を自慢と捉えれば不愉快が残ります。相手より自慢することが多ければ鷹揚に構えて相手の話を聞くこともできます。そのくらい人間は自分に気を使って生きているわけです。そうでなくちゃ、とてもじゃないが、怒鳴らずにはいられないでしょう。冷静に物事を見るのは本当に大変な作業です。

世界情勢

 北朝鮮が9月9日に大陸間弾道ミサイル発射の実験をするかもしれない。どの方向に向けて発射するのかが重要になる。もし、グアムの方角であればアメリカはどう北朝鮮に圧力をかけるのだろうか。いきなり有事になることはないであろうが、北朝鮮の陸地のどこかにミサイルを発射するかもしれない。しかし、ロシアが話し合いにより温和に解決しようとする姿勢だ。一体どう事が展開するのか全く分からない状況である。危機感は今の所ない。食料が不足しない限り人間は大して危機感を覚えないように遺伝子に書き込まれているのかもしれない。私自身、北朝鮮とアメリカが戦争すれば、その時の日本人の空気感を見てみた気もする。むやみに戦争をして人が死んでも、日本人は誰も悲しまない。なにせ、日本人は生きるのがとうの昔に嫌になっているからだ。死んだとしても、それが、生きることと比べてどちらが辛いのか比較検討してみればすぐに答えが出る。死んだほうが楽だ。格安航空が空を飛んでいる。値段が安い分、どこか機体が壊れてるんじゃないのかと思わないでもない。しかし、墜落したとても、旅行先についたとしても、どっちでもいいじゃないかと思うのだ。それは、たぶん私だけだろう。私は飛行機がちょっぴり苦手な飛行機大好き人間だ。私は、前の記事にも書いたが、二つの相反した意見を常に頭の中に持っている。この二つに誑かされ前に進む事ができないでいるのがいつもの私だ。果たして、進むべきか、それともとどまるべきか。果ては、引き返すべきか。いくつも暗算しなくちゃならない。どうせ、振られるのならここで楽していようだとか。振られないように勉強しなくちゃだとか。勉強もしなくても振られないだろうとか。勉強しても振られるだろうとか。優柔不断であるのは確かである。人に合わせたほうが楽だ。つまり、何か自分の行いを言いか悪いか言われるのに耐えられないのだろう。いつも思うのだが、人が何か行動をしているときそれにお伴するなば、全面的にその行動を後押しするべきであって判定者になるべきじゃないと思うのだ。そうは言っても見ても、人はどうしても判定してしまうものだから、人を変えようと思うような気持ちは捨ててしまって、さっさと自分についてあれこれ考えて悩んでいるほうがよほど気が楽じゃなかろうか。自分を抱いてくれるのはやはり自分が一番うまく抱けるわけであって、オナニーに関しても、人の手では加減がよくわからず、自分の手がよく強さをわきまえて射精してくれるものなのだから。注意するべきは、私たちは本当に感覚をもっと表に出して書くべきだということだろう。写生文と言って、見たものをそのまま書くのかと思えば、夏目漱石曰く、子供を見る親の目で世の中を眺め見渡すことらしいので、なかなか言葉とその言葉の実践の内容が想像もつかないので、とりあえずは、写生文とは、冷静な気持ちでなおかつ稚児をみるようなあたたかい目で、色眼鏡を捨て去り、あるがままの心情に浮かぶ景色を書くことであろうと思う。そうすると、本当に見たものを書くという意味の純粋性により近づくのであろう。夏目漱石の注意喚起したところによれば、人はどうしても自分の都合のいいように、もしくは、悪いように書いてしまいがちであり、どうしても、もっと落ち着いてものを見ることができないという。これがお金になるのか、ならないのか。自分の役に立つのか、立たないのか。そういった目で物事をみてしまう。元来、原始人であった私たちは自分の生活の役に立つ道具を発見しまた、作り出すことで生活を楽にしてきたのだ。楽にしたい気持ちが、ものを役に立つか立たぬかで見る目につながるのである。しかし、役に立たないものをどうみろというのだろう。非常に難しいではないか。考えてみれば、自分に関係のない役にも立たないものを書いて何になるのだろう。空き缶を熱心にスケッチするときに、私は、自分がよくものを見ていないのに嘆いた。じっくり見なくてはいっこうにものは見えてこない。見えたと思っても、まあ見えたりない。特に、グラデーションについて微細に白と黒で陰影をつけ立体感が出るが、それでも線は歪んでいたり、大きさがおかしかったりするものだ。年をとるにつれて、世の中のことが少しわかりかけたなどと思って、すいすい得意げに泳いでいると足をすくわれる。何歳になっても、努力はするべきであるし、努力は楽しいものである。何も知らないでいるという自覚がいかに人間を豊かにするだろうか。何かを知っているといううぬぼれが、知っているものにしか脳が働かないで世界を狭めてしまうのもどうしてであろうか。例えば、今日見たはてなの記事である。「20年引きこもっていた友人が就職する」である。20年はあまりにも長い、就職は非常な困難が付きまとうであろうが応援する。20年が無駄ではなかったと証明してくれ、などと言っている。価値基準が彼方にある限り、もうこちらはお手上げである。第一に、友人もまたバカで、おごってやるといわれているのだから奢って貰えばいいのだ。少年ジャンプのセリフのような幼稚なことを言うくらいなら、いっそ食べまくってやればいいのだ。男の尊厳を少年ジャンプなんかにおいて欲しくはない。嘘なんだから。文章を読んでもらえるかどうか、大きな割合を占めるのは見出しである。タイトルは、文章を大きくまとめたものだ。今私はのつけたタイトルをみると「世界情勢」とある。世界とは、私の周囲の言語環境を言うのであろうか。私は、自分の体験したことのないのを口にするのをためらうたちの人間であるが、それはあまりにも人間の想像力を狭くしているように思う。経験は、ときに人を盲目にもさせる。太平洋戦争に勝っていれば日本はいずれもっと大きな失敗をして立ち直れなかったと思うのだ。負けてしまって、ようやく日本は正気を取り戻したかと思える。そして、狂気は北朝鮮に綺麗に温存されていたと見るべきであろう。ヒステリックさを北朝鮮は象徴して実際に行動に移している。この点は、本当に面白いと思うのだけれども。北朝鮮が嫌われる理由も、人間が嫌われる理由も大して変わりないのではないか。あそこは、国家体制は悪いがここ人はいい人間だと言われることもあるかもしれない。逆に、国家体制は良いが人は悪いと言われることもあるだろう。しかし、国家体制などを表に出すような国はやっていけない。内輪揉めを、隣近所に見られて恥をかいているだけだ。恥が多すぎて厚顔無恥になっているのが今の北朝鮮であろう。非常に繊細な国であるのは確かであるように思われる。バカみたいな顔したブスを将軍などと呼んで、とてもじゃないが、あれじゃまともに戦場で活躍できそうにない体をいかに駆使するかと思えば、部下の手柄を拍手で迎えテレビが将軍の手柄だと騒いで国民は唖然としているのである。北朝鮮国内に住む人間の動向が全く入ってこないのが、私たちにとっても苦いところであろう。いずれにせよ、北朝鮮が明日ミサイルをどこに向けて発射するかである。もしかしたら、ミサイル発射さえしないかもしれない。気まぐれだから、北朝鮮はやりきれない。

偏狭

 僕の精神史について書くね。でも、とても長いと思うんだ。だから、書けない。書いてもそれは正確じゃないからちっとも僕じゃない。でも、そんなつまらないことを書こうと思い立った一瞬の気まぐれが僕であるのは確かだ。僕は気まぐれだ。そして、世界に無関心を貫いてやっと生きてる。もし自分が世の批評に立たされれば、たちまちにして恨みを買うだろう。ズルしてるってね。いかにも、僕はズルしてる。だから、ずる賢いというわけか。自虐にしてはつまらない。生きるのに血眼になるよりも、あっさり死んじゃいたいね。真剣に考えるから行動もできない、仕事もできない。あれこれ計画的に物事を考えすぎるせいかな。じゃゴールってなんだ。計画がなければ、達成もないものだ。ゴールはないのだろう。先にゴールはない。ゴールは常に今ここにある。今ここでシャワーを浴び外へ出ればいい。だから、外へ出る。