アウトプット

相手の視点に立ってみよう

世界情勢

 北朝鮮が9月9日に大陸間弾道ミサイル発射の実験をするかもしれない。どの方向に向けて発射するのかが重要になる。もし、グアムの方角であればアメリカはどう北朝鮮に圧力をかけるのだろうか。いきなり有事になることはないであろうが、北朝鮮の陸地のどこかにミサイルを発射するかもしれない。しかし、ロシアが話し合いにより温和に解決しようとする姿勢だ。一体どう事が展開するのか全く分からない状況である。危機感は今の所ない。食料が不足しない限り人間は大して危機感を覚えないように遺伝子に書き込まれているのかもしれない。私自身、北朝鮮とアメリカが戦争すれば、その時の日本人の空気感を見てみた気もする。むやみに戦争をして人が死んでも、日本人は誰も悲しまない。なにせ、日本人は生きるのがとうの昔に嫌になっているからだ。死んだとしても、それが、生きることと比べてどちらが辛いのか比較検討してみればすぐに答えが出る。死んだほうが楽だ。格安航空が空を飛んでいる。値段が安い分、どこか機体が壊れてるんじゃないのかと思わないでもない。しかし、墜落したとても、旅行先についたとしても、どっちでもいいじゃないかと思うのだ。それは、たぶん私だけだろう。私は飛行機がちょっぴり苦手な飛行機大好き人間だ。私は、前の記事にも書いたが、二つの相反した意見を常に頭の中に持っている。この二つに誑かされ前に進む事ができないでいるのがいつもの私だ。果たして、進むべきか、それともとどまるべきか。果ては、引き返すべきか。いくつも暗算しなくちゃならない。どうせ、振られるのならここで楽していようだとか。振られないように勉強しなくちゃだとか。勉強もしなくても振られないだろうとか。勉強しても振られるだろうとか。優柔不断であるのは確かである。人に合わせたほうが楽だ。つまり、何か自分の行いを言いか悪いか言われるのに耐えられないのだろう。いつも思うのだが、人が何か行動をしているときそれにお伴するなば、全面的にその行動を後押しするべきであって判定者になるべきじゃないと思うのだ。そうは言っても見ても、人はどうしても判定してしまうものだから、人を変えようと思うような気持ちは捨ててしまって、さっさと自分についてあれこれ考えて悩んでいるほうがよほど気が楽じゃなかろうか。自分を抱いてくれるのはやはり自分が一番うまく抱けるわけであって、オナニーに関しても、人の手では加減がよくわからず、自分の手がよく強さをわきまえて射精してくれるものなのだから。注意するべきは、私たちは本当に感覚をもっと表に出して書くべきだということだろう。写生文と言って、見たものをそのまま書くのかと思えば、夏目漱石曰く、子供を見る親の目で世の中を眺め見渡すことらしいので、なかなか言葉とその言葉の実践の内容が想像もつかないので、とりあえずは、写生文とは、冷静な気持ちでなおかつ稚児をみるようなあたたかい目で、色眼鏡を捨て去り、あるがままの心情に浮かぶ景色を書くことであろうと思う。そうすると、本当に見たものを書くという意味の純粋性により近づくのであろう。夏目漱石の注意喚起したところによれば、人はどうしても自分の都合のいいように、もしくは、悪いように書いてしまいがちであり、どうしても、もっと落ち着いてものを見ることができないという。これがお金になるのか、ならないのか。自分の役に立つのか、立たないのか。そういった目で物事をみてしまう。元来、原始人であった私たちは自分の生活の役に立つ道具を発見しまた、作り出すことで生活を楽にしてきたのだ。楽にしたい気持ちが、ものを役に立つか立たぬかで見る目につながるのである。しかし、役に立たないものをどうみろというのだろう。非常に難しいではないか。考えてみれば、自分に関係のない役にも立たないものを書いて何になるのだろう。空き缶を熱心にスケッチするときに、私は、自分がよくものを見ていないのに嘆いた。じっくり見なくてはいっこうにものは見えてこない。見えたと思っても、まあ見えたりない。特に、グラデーションについて微細に白と黒で陰影をつけ立体感が出るが、それでも線は歪んでいたり、大きさがおかしかったりするものだ。年をとるにつれて、世の中のことが少しわかりかけたなどと思って、すいすい得意げに泳いでいると足をすくわれる。何歳になっても、努力はするべきであるし、努力は楽しいものである。何も知らないでいるという自覚がいかに人間を豊かにするだろうか。何かを知っているといううぬぼれが、知っているものにしか脳が働かないで世界を狭めてしまうのもどうしてであろうか。例えば、今日見たはてなの記事である。「20年引きこもっていた友人が就職する」である。20年はあまりにも長い、就職は非常な困難が付きまとうであろうが応援する。20年が無駄ではなかったと証明してくれ、などと言っている。価値基準が彼方にある限り、もうこちらはお手上げである。第一に、友人もまたバカで、おごってやるといわれているのだから奢って貰えばいいのだ。少年ジャンプのセリフのような幼稚なことを言うくらいなら、いっそ食べまくってやればいいのだ。男の尊厳を少年ジャンプなんかにおいて欲しくはない。嘘なんだから。文章を読んでもらえるかどうか、大きな割合を占めるのは見出しである。タイトルは、文章を大きくまとめたものだ。今私はのつけたタイトルをみると「世界情勢」とある。世界とは、私の周囲の言語環境を言うのであろうか。私は、自分の体験したことのないのを口にするのをためらうたちの人間であるが、それはあまりにも人間の想像力を狭くしているように思う。経験は、ときに人を盲目にもさせる。太平洋戦争に勝っていれば日本はいずれもっと大きな失敗をして立ち直れなかったと思うのだ。負けてしまって、ようやく日本は正気を取り戻したかと思える。そして、狂気は北朝鮮に綺麗に温存されていたと見るべきであろう。ヒステリックさを北朝鮮は象徴して実際に行動に移している。この点は、本当に面白いと思うのだけれども。北朝鮮が嫌われる理由も、人間が嫌われる理由も大して変わりないのではないか。あそこは、国家体制は悪いがここ人はいい人間だと言われることもあるかもしれない。逆に、国家体制は良いが人は悪いと言われることもあるだろう。しかし、国家体制などを表に出すような国はやっていけない。内輪揉めを、隣近所に見られて恥をかいているだけだ。恥が多すぎて厚顔無恥になっているのが今の北朝鮮であろう。非常に繊細な国であるのは確かであるように思われる。バカみたいな顔したブスを将軍などと呼んで、とてもじゃないが、あれじゃまともに戦場で活躍できそうにない体をいかに駆使するかと思えば、部下の手柄を拍手で迎えテレビが将軍の手柄だと騒いで国民は唖然としているのである。北朝鮮国内に住む人間の動向が全く入ってこないのが、私たちにとっても苦いところであろう。いずれにせよ、北朝鮮が明日ミサイルをどこに向けて発射するかである。もしかしたら、ミサイル発射さえしないかもしれない。気まぐれだから、北朝鮮はやりきれない。