アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ああ、どうでもいいさ。好きにすればいい。ぼくは、それに協力はしないよ。好きにすればいいんだから。目的地が同じなら、どういう道順で進んでもいいんじゃないかな。そう思えるんだ。僕は。だから、許してとも言わない。神がいなくなれば、だれも許されない。みんな許されないことがわかった。だから、もはや、悩みがなくなる。好きなことをして、好きなように生きて、それがいいのか悪いのか知ったこっちゃない。ただ、それが、楽しいのかといえば、そうとも言えない。充実感が欲しいのだろう。あまりにも、満たされているとエネルギーが充満して疲れ果てて行く先は女の膣の中に白濁を注ぎ込む如雨露。

メディアは時間を浪費させる。もっと自分の楽しいことをすればいいのに、それでは社会性がないだの言って、結局つまらないことをさせる。自分たち、メディアもつまらないことを取り上げて、世の中が動いていますよとアピールする。なんて、下世話な世の中であろうか。こんな時代に、本も読まずに、映像を見ながら、つまらないことを言うのはうんざりだ。また、いつまでも見続けられる映像メディアがうんざりだ。君の目は、映像を見るためについているのではないはずだ。

それは自分の考えか?引用だろ?

 失敬。失礼なタイトルだ。だが、言いたいのだ。んー、でも、言いたいほどでもない。とりあえず書く。

 

 行間は、展開だ。

 

 松本人志と紳助が、おしゃべりについて話していた。頭の中に紙芝居がある。その映像を見ながらしゃべる。嘘でもいい。嘘をつきなさい。そして、細かい描写は本物になる。だから、嘘もつける。

 

 細かい、ディテールを描く。

 

 りんごのデッサンを思い出した。使うのは鉛筆。細かく陰影を描いてくと、立体的なリンゴになるのだ。

 

 俺の場合は、ピカチュウだった。

 

 あと、思い込んで話すこと。紳助はカンペを何遍も読み間違えるらしい。なぜなら、自分の気持ちから発せられる言葉ではないからと、分析していた。とにかく、心を込めて話せ。落語家がそばを食べる、あれだよ。

 

 これは、自分用のメモか、それとも偶然訪れた人のためか。いや、来訪者のためではない。

 

 金剛般若経を読んでいる。いま、他の本の上に見開きのページを開けたまま、俺が読むのを待っている。鳥が羽を曲げて飛んでいる姿にそっくり。かもめかな。

 

 だから、カモメなのかもね。

 

 

 言いたいことを言えばいいじゃないか。バカみたいだ。漫才で、ウーマンラッシュアワーがネタしてた。評価はしないよ。だって、意味ないもん。俺が言いたいのって、俺との対話なんだよね。誰とも、対話できないような。従うか、従わせるのか。それくらいが、世の中だね。あいだにある、ルールがせめてものお互いを戦わせずにすむ境界線、壁だね。じぶんのことを、考えるのって、突き詰めるとすごくどうでもいい。まわりからどうみられているのか。それを考えて、演じる。それを感じるから、自分の気持ちをぶち壊してしまう。でも、自分の気持ちが強すぎるのも悪酔いの原因だから、周囲に人がいるってのは、行き過ぎることがなくなるから、ブレーキとしての役割はある。たしかに、アメリカでは政治ネタが受けるのだろう。それが、スタンダードなのだろう。しかし、政治が嫌いなアメリカ人にとっては、そんなお笑いはみたくもないのだろう。政治を意地でも好きじゃなくちゃいけないのもおかしい。いな、「国民」であるからには、この枠にとらわれて、政治をしなくちゃならない。縛りが多すぎる。「国民」として、沖縄の基地問題を考える。たしかに、沖縄は日本国領土である、と考えると、少し違和感もある。沖縄はアメリカ軍基地で潤っているわけだ。思いやりで予算を与えるのも、米軍が入れ替わり立ち替わりいるほうが経済的にもいいからであろう。そして、果たして、沖縄は日本であるほうがよかったのかわからない。アメリカが駐留して経済も潤い、日本のつまらないしきたりや礼儀に縛られないで済むのならば、沖縄は、アメリカがいることで日本的な、わずらわしさを許されている面がある。好きなことをして生きて入られる。沖縄は、日本。そうだろうか?沖縄は、日本じゃなくちゃいけないのか。日本であってもなくても、沖縄を大事にすりゃいい。しかし、ドライに考えれば、どこかの国から攻められるという、不安に駆りたてられて、アメリカと日本、両方に守られている沖縄は、最強じゃなかろうか。日本国領土もまた、アメリカに守られる予定だが、沖縄に守られるわけではない。戦争を起こした人間がのさばっていた、戦時中、アメリカがやってきて、そいつらをどこかへやった。もちろん、許すこともできただろう。でも、無理だった。この国の人間というが、人間は千差万別である。特に政治は、利益を誘導する。いかに税金を自分の懐と結びつけるか。サラリーマン政治家では、その上のお坊ちゃん政治家を超えられない。金は、お坊ちゃんの方にあるのだ。だれも、世の中を良くしようとは思わない。自分を変えようとはするけれども、世の中に合わせて変えようとするばかりだ。世の中を変えようとするように自分を変えようとするとどうだろうか。ある芸人は、毎日五十円で雇われて、食って寝ている。地球がひとつの家であるようだと言っていた。もちろん、ふつうの家庭もあるだろうし、普通じゃない家庭で寂し沙紛れに五十円で人を1日買った人間もいるのだろう、そんな人にあるのも、縁である。いかにすぐれていたものがあっても、結び付ける縁がなければ、互いに知ることもない。何も知ることはないのだ。世を冷静に俯瞰して分析するのは、死んだ人間のやることだ。血が通ってもいない。そこに感情はない。理性を超えたときの、感情なりルールがない。だから、どうでもいいのだ。ほんとうに。どうでもいい。

世の中の記事について

 世の中にはいろんな記事が転がっている。不倫であったり、事故の話であったり、犯罪の出来事であったり、結婚であったり、そして、どれもほんとうにどうでもいい内容なのだ。自分の関心やら興味をそんな記事を読むのに時間をかけているのは、人生が非常にもったいないような気になってくるのだ。だって、それを書いた人もまた、金のために、何にもすることがないような人間に対して記事を書いているのだから、うすら寒いではないか。いろんな慣習を今度はマスコミがでっち上げるようになる。いろんなことがこれからまたブームとして起こるだろうけれども、それは、日頃コミュニケーションをしない人間が、それを頼りに人とつながるためにやっていることなんだ。テレビなんて見ちゃいけない、なんにも楽しいことがない。ただ、紐帯を大事にする。それにかかっている。いろんな記事も、不倫も、事件も、思想も、すべて、紐帯のためにある。

 ぶるんぶるん、回転する。駒のように。回転している間は、背筋がピンとしている。そういうもんだ。と、誰が納得するだろう。どうでもいいじゃないか。鬼は、君の心にいたのだ。外にはいない。ああ、そういうことだろう。自分一人で時間を楽しめない人間は、不幸だ。インスタもおかしい。なんだって、おかしい。人との関わりが薄いのは悲しいことだろう。お金の心配よりも、自分の周りに人がいないことを嘆くがいい。しかし、これもまた試練だろう。精神を食って生きてる。そんな感じがしている。温めなければならない。そっと。急ぐのは絶対に良くない。事故の大半はスピードの出し過ぎ。とにかく、ゆっくり歩むことだろう。そうじゃなかろうか。たとえば、仏教なんかして、偉そうになってはいけない。これは、陥りやすい。人より自分は優しいから偉いんだと思い始める。これは気をつけたほうがいい。宗教を始めるのもおかしい。わからん。わからん。ちっともわからん。なにもわからん。その、なにもわからんのに何をいいたいのだ。ああ、小さな世界に巣食っている私よ。かわいそうな私よ。