アウトプット

相手の視点に立ってみよう

体系的に

 弁が立つというけれど何をもってそう言えるのか。あいての主張に対して、もう既に通り過ぎたその主張に伴う根拠を十分に反駁できる論証を用意しているということなのか、相手から予想される反駁に対する再反駁を会話に織り交ぜ、まるでひとり言のように主張を続けることが弁を立つということであると考える。聞き手は、耳を防ぐことでしかひとりごとのような主張に対抗することはできないのである。

 にしても、弁が立つというのは実に爽快なことである。相手の浅はかな思慮が垣間見えることに喜びを見出し、また安心感をも見出す。翻って、何故相手の無思慮に嬉々とするのかを考えてみると、私がその無思慮な相手方とくらべて優れているという気持ちを抱くからに他ならないのではないか。また、思慮深さは喜ばれるものであり、その思慮深い人間の人格は尊ばれる。師と仰ぐものさえいる。師が何か発言したり行動すると、人々は何か深遠な考えがあってのことだろうと、その行為を崇高なものとして捉え、分析しようとする。いや、師の行為に分析の魔の手を向けることは”弟子”には許されないことである。弟子は既に師を尊ぶことで自らの自己同一性を図り安らぎを得ようとする。なぜ、自己同一性を図ることで安らぎを得られるかというと、人間の不安は安心が途絶えた先の混沌とした将来への態度であるからだ。永遠なるものはないのである。今この状態が良い状態である場合、そのよい状態が将来悪い状態になるのではないかという予期が不安なのである。不安とは、全ての物事が永遠普遍でないという認識からくるのである。

Freedom

 Now I am going to sleep to stop my brain. Why am I use language? Is it to move people to buy someone or people to have same feelings? Just I want to say “correct words” I need. I don’t need normal language. People should be more polite to others! Shut up! You are not polite to say like Tahar. Most irritated opinion is normal opinion. Like a robot communication. The brains is dying so use same pattern of words. It is not fresh. It invents nothing. So what I want today?! I don’t want to have responsibilities to others! Why I must struggle to others feeling. Like how people think about me! It waste of time. Time is money. I want to make a answer so fast. Maybe , fast answer is correct. I don’t think so but who want to read like this article. Your mind get same feeling and let’s go somewhere with me! Romantic! Tomorrow is Sunny day Saturday in Tokyo. Take sandwiches and get out home. Visiting park and eat home made sandwiches! Under the summer’s sunshine! 

果てしない日常

 いつ終わるともしれない毎日が愛おしいのは、いつ終わるかもしれない毎日を感じているのだからだろう。この世界というとき、世界は抽象的な事象に変換され具体的な事象は消える。何について話しているのか全く分からなくなり結局は眠たくなる文章を大量に書き散らしまた心の多くの雑多な言葉を増やすことになる。それなのに、こうして描くのはなぜだろうか。描く速度が上がっていることに私たちは気がついているのだろうか。そして、各速度が上がった分だけ言葉は短絡的な表現と結びつき即興的となり、心に響かなくなる。喧嘩越しの言葉ばかりが世の中に流通して、人々は互いに相手のこと異質さを理解するのではなく相手をある一定の圧力に服従するのかしないのかで人間性を見ることになる。人間というのをなぜ私たち言葉を話す人間としているのか分からないという結論に至った昨日の眠れない夜を、こうして文章を書く作業を通じて思い出すことができただけでも幸運なことのように思えてならない。どうして文章を書くのだろうか。書くこともないけれど、何か書くことがあるのではないかと思いあぐねているうちに、何かを書いていると不意に意識もしていないところを見つけて言葉が無意識を埋めようとしている。ラカンは、無意識は言語により構造化されているといった。無意識について私は明確に説明する言葉を持たない。抑圧されたことを思い出すのが無意識であろうか。忘れたことを思い出すのも無意識であろうか。無意識は常に意識に影響を与えている。だから、日頃から自分がどんな偏見や恐れを持って世界と対峙していきているのかを把握しておくことで、自分の意識を広げることができるようになるではないか。所詮人間は、動く神経である。しかし、この表現を人間性への侮蔑に捉えて欲しくはないのだ。もっと、人間であるならばあまり賢しらなことを考えて自ら混迷に陥る道を選ばないように生きることができるのではないか。人々の対立を煽る人たちの利益になるようなことに加担しないのは最も大事なことなのではないだろうかという意識になるのだ。思えば、自分の仕事について語るのがメタである。私の仕事について語ることで、私が仕事のために何かをしているような印象を他人は持つしかない。私は語られるべきことが全て語られない限りは、その覚悟なくして相手に自分が思っていることを伝えることはできないと思う。たとえ、いっていることが伝わっているとしても本人は確認しようがないではないか。ただ、いっていることを理解していますよという信号のレベルでしか人間は相手を理解することができないのだ。と、すれば自分がいかなる集団に属してそれに対して理解があるように思えても、信号をキャッチしてその信号の命ずるがままに動くことを自ら承認しているというレベルであり、完全な理解は、おそらくは、還元な同じ虚構の作出になるのではないだろうか。例えば、三島由紀夫を研究するとき眼前に三島はいないし、三島に問いかけることもできない。自らが三島の痕跡をたどって三島を再構成するのが三島由紀夫を研究するということであろう。そして、多くの研究者と同じ対象としての三島由紀夫を再構成するために、三島由紀夫について対談がなされたり論文が発表されたりするのであろう。

 N国党がマツコデラックスにものいいをするために、テレビ局に行き直接にマツコデラックスと対談する機会を得ようと必死なのであるが、私としては、失言をネタに自らを大衆を味方につけるのは、大衆という相手の足を引っ張ることしか考えない人間が好んでする手法であるから、当然、N国党のような権力を持った党が出現すれば、それに自らを投影して炎上し盛り上がるのは当然であるように思われる。かつては、YOUTUBEでだけ活躍していたが今となっては国会議員となり、権力を持つ立場に立ったのであるからそれなりにおとなしくしろというのがまた大衆である私の発想なのであろうけれども、マツコデラックスも例えば、威圧的な人間を避ける権利はあるわけである。話したくない相手と話さなければならない理由はない。確かに、対話がなければ関係性はないので汚い大衆に身を染める必要はない。テレビという組織自体がもうすでに今生きている人たちの感覚とズレを生じてきている。そのズレがあるからこそテレビに流されることはないものの全くないというわけではなく、いまだに消費者に影響を与えているのであるし、ツイッターの話題もどこかの記者が取材してきた内容の切り抜きに過ぎないので非常狭い範囲の物事しか知らないで自分たちを無知の恐るべき領域から、全能感の多少溢れる領域に移行しようという意識がツイッターをしている人間の心理にはきっとあるのだろうと思う。私は、このN国党のやり方が間違いだとか正しいだとかいう判断をするよりも、N国党の手法を支持する人たちが一定数いるのだが、それを普段目にしないので、潜伏しているのであろうという感じがしているだけなのだ。潜伏するよりも太陽の当たる場所に出て海で泳いだ方が、YOUTUBEをみるよりもどれだけ素晴らしいことかを早く知るべきである。まるでインターネットの世界を世界の全てであるように捉えることで、世界を矮小化し自分が気に入った世界とみなして冒険しないのは実に、不健康な出来事であるとしか言いようがない。

 

ジャックデリダ

 デリダの面白さは、二項対立に反対しているところ。例えば、正義と不正。これはつい概念である。しかし、正義の中にも不正はある、不正の中にも正義がある。何が正義で何が不正であるのか決定するためにはどうすれば良いのか。かつて、プラトンは正義の中にある不正を、正義の外に追い出した。そして、完璧な正義を作り出した。そして、正義でもあり、不正でもあるものを追放した。これにより、正義と不正をまじりっ気なく対立させて論じるのがプラトンだという。では、追放されて正義でもあり不正でもあるもの。これは、正義であるはずのソクラテスが不正な輩として裁判にかけられ死刑を宣告されたことを例えに考えてみればわかる。

 そこで、結局は正義と不正という基準の中には決定不可能生がある。つまり、いかなる決定をしてもそれが絶対的に正しいということはないのだ。それを考慮するべきだというのだ。例えば、死刑制度反対という法律を作るときに、遺族の憎しみに対して責任を取ることができなくなる。死刑制度賛成とすると、死刑囚の親に対して責任を取ることができなくなる。ラーメンを食べれば、寿司屋に対して責任を負い、電車に乗ればタクシーに対して責任を負う。つまりは、決定不可能生、決定が絶対的な正しさの元なされることはないのであり、常に誰かを傷つけている、あるいは常に誰かを差別している、その誰に対して責任を取らなくちゃならないが、責任を取れないということ。それを知るべきだということ。それがデリダだよね?

僕の癖

 必ず難癖をつける。しかし、馬鹿ではないのでそれを口にすることはしない。すると何が起きるのか。言いたい難癖を基軸にそれを言わないように話題を見つけるのだ。それだから素直じゃないと言われても仕方だない。素直になれば相手を不愉快な気持ちにさせてしまうから。別に、相手を不愉快な気持ちにさせることが目的ではないので。でも、瞬時に相手の痛いところが目に見える時、逆に相手が自分の痛いところに目をつける時私は状況によるが特に過剰な反応はしないでさらっと先回りして答えてしまう。聞いてくれるなら、質問をこちらで解釈して答える。

ゆうべはまで見たヤドカリ

 砂つぶを白い貝殻に擦り寄せて夕日に向かい歩くヤドカリに

 波がなんども押し寄せて甲羅の砂を洗い流す

 なんども転倒するヤドカリは起き上がって赤い空に向かって歩く

 砂場は、赤く照らされて海面はキラキラゆらめいている

 綺麗な浜辺か汚い浜辺かヤドカリの目線は太陽に向かっている

 太陽は沈んでやがて空に星が輝く

 月が白い貝殻を照らし青い空に雲が流れる

デュルケーム

 デュルケーム社会学者であり、今私が読んだところによると社会学を彼が定義するに、社会学とは制度を対象にした学問であるとされている。また、個人の心的な事実とは離れて個人が従うところの社会規範も社会学の対象とされている。個人の心的機制を離れているから心理学とは違うという主張である。確かに、個人の心理がいかようであれ制度に拘束されている人間は多くいる。アメリカが黒人を奴隷に開墾させていた時それを制度として許容していたのだ。しかし、そこに黒人の気持ちは抑圧されているのではないか。それとも、制度が当たり前であるから、4年で大学を卒業するのが当然であるように、当然のことであるから疑いに対象とせずに、当たり前に不当な作業を強いられていることを受け入れてもいいのであろうか。それは、現代の日本人労働者にも言えるのではないだろうか。確かに、上司の言うことを聞くのはいいが、俺もこうしてきたのだからお前たちもこうしろと後輩に言うのは、負の再生産でしかないであろう。上の人たちは、もっとゆるいところを見せればいいのである。頼られるような上司よりも、皆から助けてもらえるような上司の方がいいのだ。しかし、すぐに極端に怠惰な上司を想定してそれはおかしいと言わないでくれ。ある程度、と言うことだ。そのある程度というのが難しいのでややこしい話なる。本当にややこしい。しかし、ややこしいで終わらせるのは良くない。ややこしいところにやりがいを感じなくてはいけない。難しいことに燃えなければならない。困難に出くわしたら、困難をなぎ倒さなくてはならない。その気合いなくしてどう生きろというのか。上司がポンコツでも部下がしっかりしていればいいそれだけの話だ。それを部下が俺が上司の代わりになると言って仕切って士気が下がれば上司の株が上がるだけの話。やっぱり前の上司でよかったとなるのだ。つまりは、自分の仕事を自分のためだけではなくて相手のためにもしなくてはならない。