アウトプット

相手の視点に立ってみよう

他者の気持ちと私の気持ち

自己主張と考えるとき、それは自分の意見であるというとき、まだ少し君はまともなところにいるように思われる。自分の意見が正しいというとき、それを信じて疑わないときに君は余裕のなさを露呈している、なんでもいいというとき、君は判断不能とほうきをしている。寛容であること、それは意見を持ちつつも相手の意見に耳を傾けわかろうとする姿勢であろう。何も意見がないのに、他者の気持ちを汲んで実現してやろうという魂胆は寛容の精神ではなく自己の決断なり意見のなさを他人に任せているという証拠に他ならない。私は思うのだが、インターネットの記事はどれも最悪だ。記憶に残らないからだ。コンテンツとして、まるで、すぐに消費されてしまう。否、消費すらされない。薄っぺらな中身が漂っている。現実の世界で話し相手のいない人にとってはネットは仮装である西も人の意見を反映している。今私のようなコトを言うのはおかしいのかもしれない。しかし、ネットが普及したコトですぐに調べるコトができ記憶力は格段に落ちてしまっているのもまた事実であろう。私がどうすれば楽しく元気に毎日を過ごせるかと考えるときに私はインターネットを今すぐ辞めるという結論に至った。私は今すぐにインターネットを辞めるべきなのだ。本を読むべきなのだ。私はかつて本が好きだった。本を読めばネットよりはるかに情報量は少なくても、質は格段にいいものが手に入ったし、提供されない情報を推量するコトができるのも読書のおかげである。レストランでレシピをもらって作り方の工程まで書かれていなくても想像できる、それが楽しさではなかろうか。インターネットではレシピまで書かれているけれども、話のネタにはなるかもしれないが、それを覚えるわけでもなく、ただ、私は反応ばかりがあるのだ。私はあまり反応しない人の方が好きだし、自分自身そうだと思う。よくすぐに共感する人を見ると別にそれすらどうでもいいのだ。楽しいときに笑い、そうでないときは不満顔、それが一番人間らしく、人間らしいということは健康的であるというコトだ。無理して笑えばその場は良くても気が狂うだろうし、それを長く続ければ疲れ果て永遠に面白くなくても笑うという芸に執着して結局は不安に陥り何が本当で何が嘘なのだとかつまらない疑念に陥るコトになるのだ。自分で自分を欺くコトなかれ。欺いているのだとわかってやっているのだとすれば・・・たいていの人はそうだろう。美味しくなくても、美味しいというだろうし。しかし、そのとき本当に美味しくなかったものが美味しくなるのだから不思議であろう。そうか、人間は騙されやすいのだ。その方が幸せなのだと考える。家は貧乏だけど、家族の笑顔がある。家族はいないが、金はある!どちらにせよ、比べるコトを私は許容しない。うどんと、そばどちらが美味しいのかいってみたもはじまらない。比べるとはいったいどういった事態か。現象があらわれて、それを比べてどうなる。目の前にうりふたつの双子がいて同時に喋り同時に動く。そのときその二人を比べてみても何も違いがない、とすれば、どちらとセックスをしても変わらないというのか。リアクションとはもしかすれば、差異を生み出すための行為なのだろう。私を忘れないでと、アピールであろう。ノリであろう。ああ、そうこう考えているうちに私はどうも頭がおかしくなってきたようだ。