アウトプット

相手の視点に立ってみよう

人がおかしくなる時

 文字を感じられない。文脈の意味は理解できても感情を喪失し無味乾燥の文字が羅列している。やるべきことと言われる社会的圧力という救済を避けて自由に溺れる。人はおかしくなる。心の古い古い地層の中に一世代だけで終えるような感情を持ち合わせていない。非常に忘れっぽくなり同じことしかできなくなるため、新しいことに挑戦できない。つまりずっと退屈な状態を強いられ心が腐る。心が腐れば、ブログを書いてこの構造を明らかにしようとする。しかし、少しでも散歩すればこの心が晴れるのはわかっている。私のしたいのは文字で気持ちを癒すこと、それだ。なぜ文字に頼るのか。それは子供の頃の体験と結びついているからだろう。文字が私の友達であってような気がする。出来事も文字で説明する。情景が浮かぶ。網膜の光にはならないが、不思議なことに他人に伝達できる不思議。文字は不思議だ。ネットという、文字情報の氾濫の中人々は画像やら動画で体験した気持ちにある。錯覚であるのに気づかない。否、そうではなくて、この錯覚に溺れていたいのだ。人生は甘くないと日本人は思っているけれども、いざ、という時は人生は甘いと考えているからそんな言葉が出てくる。江戸っ子は宵越しの銭を持たず、つまりは、江戸っ子は倹約家だったのだろう。いつの時代も、金を引き出そうと人の虚栄心や恐怖心をつついて、金をせびる。金は回らなくては経済は活性化しないと大企業の提案したライフプランとやらを楽しむより脳がなくなってしまう。つまり、ディズニーランドは行くことだ。何が面白い。周りが面白いとまくし立てるから面白いのであって、それだけの話だ。サラリーマンの世界なんてないんだから。もし感じている奴らがいたら注意したほうがいい。君が純情なサラリーマンとしておとなしく変なことをせずに会社の奴隷になるための掟だと思ってくれればいい。社会に流布する収入アップの本だってそうだ。金が来た、さあ何をする。金がなくてはできないような趣味はいたって、低俗な趣味と言わざるおえない。カリブの海で日光浴がしたいか。なんという低俗な。なんという貧乏人の発想。虚栄心なんてものを捨て去れば楽になるかといえばそうではない。特に虚栄心には焦りがある。虚勢を張っていないともう、やっていけないのだ。それくらい切羽詰まり、人生とやらを感覚的に過ごそうとしているのだ。はっきり言えば、いつ死んでもおかしくない。長生きと健康には縁のない世界であるのが感覚で生きる世界だ。よく感覚直感思考感情と大体四つに分けられる。近頃はこの手の文章が少なく誰それの芸人が離婚したやら次回作品がなんとかだとか、殺人犯をとっ捕まえただとか、新しいことを忌避している。なぜなら、新しいものは今を不安にさせるからだ。事務仕事がなくなり、工場がオートメーション化されれば仕事はなくなるだろう。しかし、どこかに労働させないと人間は堕落してしまうと考えている。事実今まで労働的価値観のもとで生きている人間が、労働していない人間の価値観を理解できるはずもないのだ。つまり、同じ生き方をしていない人間は貧乏になるのだ。皆で不幸になったほうが安心するのだ。安心こそ日本人が求めている理想の世界。欧米列強に脅されてまだビクビクしているのだろう。戦争はまた起こりうると考えているのだろう。自分たちのご先祖様が南の島で肋骨をむき出しにほおはこけ筋肉もないのに重たい銃を担がせて特攻させていたのだから。ある国の歴史について知ることにおいて、注意が必要なのは当然だと思える。もし、過去に悪事をしでかしたとして今後また悪事をしでかさないとも言えない。前科持ちの人間を誰が信用するだろうか。だから宗教があるのだろう。日本は悪くないというが、どこそこの国のほうが悪いという。そういう考えだからいけないのだ。客観的な歴史なんてのはないんだから、こちらで解釈しなくちゃならない。資料をいくら見つけてきても、それを根拠に話せる内容は豊富であるかもしれないし、資料によれば実に人間の想像に頼まなければ何も歴史を語ることができないという状況に陥って歴史がわからず過去の出来事がわからないということになってします。わからないというより受け入れないということになる。記録に残さなければなかったことになるというのが現代の人間の想像のなさと、想像のなさが作り出したのがこの2010年代半ばの雰囲気であろう。特に2016年あたりから、もう、この時代は発展したとしても機械であり人間は落ちる一方で、感性は狂って花を見ることもなく蛍光色の強いコンビニで飯を食ってお菓子を食べる貧しい暮らしの象徴を見る。嘘をついて阿鼻叫喚し自分に下手な努力論を解いて、手に入れた生活に何も魅力を感じないのは当然であろう。他人と同じものしか所有せず、意見は違っているのに私はそうは思わないと言えないのは弱さからくるものだろうか、それとも奴隷は黙っていろという掟の前でそのような質問は無意味だろうか。ああ、私は自分の心の中をひけらかしすぎてもうネタがないのだ。話していても堂々巡りで何を話せばいいのかわからなくなってしまった。話しつくしたと言っても過言ではない、残されたのは沈黙であり静寂であった。作家が死ぬのはなぜだろうか。彼らはまだ想像で人に喋らせ物語の脈路を作り、巧妙に事件を発生させるけれども、私の心は一箇所に止まって動かず意見はいくつも矛盾した意見を持っておりどれも正しいとは思えず、欠陥を探してはそこを指摘しているにすぎない。人の意見に賛成というときは、私は意見がありませんと言っているにすぎず、意見に良し悪しは決してないのだ。靴を履くとき右からか左からかと言っているにすぎない。もっと言おうじゃないか、意見なんてものはないのだ。本当にないのだ。ないものについて語るときは実に疲れる。物語だからだ。その点で意見を言う人間は作家でもあろう。その意見が通って皆が動くのだから脚本であろう。つまりは、本を読むことでつまらない脚本を捨てる力を身につけることができやしないか。私は文字で世界に迫る。言葉で。決して見た目に騙されはしないだろう。私にわかるおしゃれは話し方しかない。そして、表情だ。英語のクソ野郎にはこう言って仕舞えば足りるのだ、てめえぶっ殺してやると。これほどの嘘もなかろう、そして、これほど嘘が機能して相手を虚の世界に突き落とし狼狽させ怒らせ笑わせる言葉もなかろう。真も虚も一つの道らしい。今の自分は自分ではないというとき、もっと自分を掘り下げればいい。そのときどこに出るのか。