アウトプット

相手の視点に立ってみよう

寡黙の自己弁護

 寡黙であるのは現状認識からの逃避だろうか。現状認識をある一定の社会規範で見る癖が身についてしまえばもうそれから抜け出すことは非常な困難を伴う。頭の固い人たちを見ていると不寛容でベンキョ嫌いである場合が非常に多く本など一冊も読まないでテレビかツイッターばかり見ている。これが私の勝手な妄想であると片付けられても一向に構わないのであるが案外外してもいないという自負心が私に芽生えているのは私自身がそれを体験しているからなのだろう。

 エレア学派のパルメニデスは論理に徹底して物事を見ようとした。論理だけが真実を見ることができるのだと信じて疑わない態度を私も是非とも見習いたい。論理というと記号が思い出されるため文章を記号に当てはめる際に無理が生じるのではないかという漠然とした器具を持っているのであまり論理学の中でも記号を扱う分野は好きではない。。論理的であるのかは文章を読めばわかるのだろうと思うのだけれども、同志でも記号で理解しなくてはならないとすれば徒労に終わるであろう。あくまでも記号は論理を簡便に説明する方法でしかないと私は記号論理に対して距離を置きたい。

 論理で現状を捉えてみれば価値はないのだから何を目指してきればいいのかという啓発本を書くこともできない。目指すということはたどり着いていないのだから不満が生じているように思われる。ゼノンのパラドックスでいえば、動くことはないのでいつまでも目指した目標にたどり着くことはない。だから、目標を立てることができないのだ。なぜなら、目標は到達可能であるはずだけれども到達は不可能であるからそれは夢でしかない。