アウトプット

相手の視点に立ってみよう

世界は無数にある。

 世界は無数にある。夜眠っているブラジル人がみている美女がビーチで裸になり彼に腰を振って笑顔で近寄ってくる夢と、今こうして部屋で一人これを書いている私に移る世界は全く違うということを理解するのはたやすいことではないか。しかし、あたかも同郷の人を見れば同じ思考体系を持っていると勘違いしてそれ以外の差異を認めないように、我々個人も違う世界を見ているのであるが、ではどうして世界は一つだと多くの人が思いなしているのかといえば、それは言葉による世界の構築を行っているからだ。互いに話し合うことで思ってもいないことを言ったり、聞いてもいないことを聞いたふりをすることでこの世界は成り立っている。つまり、誰も世界に対して責任を負う必要はないのであるが世界の住人であり事故を忘れた人たちである群衆により責任を負わされ袋叩きにあうのがこの言葉による世界の習わしなのである。

 言葉により世界が成り立っているのならそれを虚構と呼んでもいいのだろうか。虚構とは実際にはない世界のことであるが、世界自体が実際にないのだから虚構に対応する現実が存在しない。我々個人が思いなしている世界も、それがいかなる個人的な世界で誰も相いれない場所を作り上げても言葉により成立している。それを考えてみれば言葉により世界は成り立つのであるから何れにせよ世界に現実性はなく虚構を世界といって構わないのではないだろうか。

 実際に、私たちは言葉の通りに動きそれに忠実になることで世界を世界たらしめている。たまに銃を乱射して生徒を死なせてしまうこともあるが世界はそうあるべきではないので加害者は抹殺される。

 至極簡単な説明であると思われても困るのだ。物の値段を市場で決めるとすれば、市場での価格がいくらであろうともそれを受け入れなければならないわけではない。自分で価格を設定して売ってしまえばいい話である。

 私の話には結論がない。