アウトプット

相手の視点に立ってみよう

虚構

 言葉は虚構である。しかし、虚構でないものはあるか。そんなものはない。すこしもないのだ。むしろ、言葉を得たことで多くの虚構を手に入れることができる。虚構とは実体のことだ。虚構が虚構と認識されればすでに虚構ではない。言葉を精神が紡ぎ出す。精神は言葉の動きに現れる。代理物を動かして精神が形成される。では、死者に魂はないのか。死者は動かない。動かないのなら精神はない。精神が活動であって、加藤堂と呼ばれるものは全て精神に依っている。

 精神もまた虚構である。そして、実体である。虚構化されない可能性もまた虚構である。根拠は全て虚構に求める。虚構の中を生きるしか人間にはできないのだ。感覚さえ嘘である。殴られていたいのは殴られたからではなく神経があるからだ。神経がなければ痛くはない。健全な人間には病的な神経が宿っている。病的神経は過剰な不安にかられ危険回避行動をとる。神経に支配された心は虚構化の精神を失い常に神経を赤子のように世話をする。

 言葉について語るときは毎回舌足らずに終わる。そのために何度も言葉について語ることになる。これは言葉が私を誘惑しているからだ。まんまとやり込められた私は言葉について永遠とおしゃべりする。言葉は一体何かという問いの意味を考えるくらいしか休息を感じられない。無意味なことを人間は常に意味の源泉と呼んできたではないか。無意味であることに意味を見出す作業の創造性を感受性であり、文化の基盤として設定してきたではないか。

 現代は、意味を根拠づけるのに必死だ。無意味に耐えきれないのだ。やかましい意味の騒音なしに安心して生きられないのだ。静寂の無意味さに創造する余地を見出せないのか。