アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 雨が降らない。天気予報は外れてばかり。信用に値しない。ってなばかみたいなことばかり考えてる。天気予報を信じても特になりゃしない、まして人間を信じるなんて迷惑極まりない。人は信用してはならない。なぜならば、信用された人間の自由を奪うからだ。言動の自由を制約するのは会社で十分じゃなかろうか。僕はまだ会社に勤めちゃいないけれど。村上春樹ノルウェイの森を読んだ。好きで読んだんじゃない。講義で必要だから読んだ。レジュメを見れば、ノルウェイの森はやらないようだった。徹夜して読んだのが無駄になったか?久しぶりにノルウェイの森を読んで、すらすらと頭に入る文章に良さがあった。頭にすらすら入ってまるで私は「僕」である感じを受ける。気持ちの共有だとか、勧善懲悪でもないし、まして、悲劇でもない。淡々と人々が訳も分からずに言葉を吐き捨てては通り去っていく。真理だけを語るよう自らに仕向ければ何も話せなくなってしまうだろう。嘘をついて、それをどう相手に興味がらせるかにかかっている。人生について嫌な面をみた。さて、どんな面構えをしていたであろう。静かで微笑んで、夜は男と眠り昼はおしゃれをしている。今の時代の顔は女だ。では、男はどうであろう。二項対立的に考える僕の思考は全然ダメだ。好きなことなんて一言もかけない。どうすれば場が乱れないか、秩序と人々はそれを認識するか知らないけれど、それを壊すのに喜びと充実を感じ安息を見出すのだ。ルールは実に奇妙複雑怪奇で、私はすべてのルールと戦いかねない戦闘状態にある。要するに私は基地外である。

女はコミュニケーション能力高いか?

恐らく、男性の多くは女性のコミュニケーション能力を信じている。コミュニケーション能力とは何かを問わずに。

 能力、つまり、何かを獲得する力。その手段が会話ってこと。つまり、貢がせる女こそコミュニケーション能力が高い。

 しかし、男の永遠のヒロイズム、女の近代において得られた明文化されない特権のよれば、男から女への贈与は、男女間に前提として存在する掟である。

 そして、コミュニケーション能力とは、贈与の意味だけではなく、相手に受け入れられるように上手に意を伝えることでもあろう。それに応じる人間もまた、相手の意を読み取らなければならない。寡黙な男性であっても、コミュニケーション能力はある。おしゃべりな女性が、コミュニケーション能力があるとも言えない。(このような屁理屈は女性の嫌うところだ。法律は原始的に女性のためにある。もっと言えば、暴力的になれないもののためにある。つまりは、平和を好む者たちの約束事だ)

 2010年前後、コミュニケーション能力についてとやかく言われ始めた。それも、流行りにすぎなかったと2017年になってわかる。当時はまだ、男性が働き女性は家事をすることのできそうな雰囲気であった。明治時代から続く観念の終焉の時期だったのだろうか。コミュニケーション能力と称し、男女の一方的な定型化された贈与を復権しようとする無意識が、コミュニケーションを大事と捉えるようになり、意識するに至ったのだろうか。意識に表れたものは、段階として無意識の中に発芽していた。花が咲いたのか。繁茂を繰り返し、時代が緩やかに覆われていく。

 時代を認識する人間が変わり、時代も変わる。人間の営みが作り出した景色。無意識的であれば、作り出された風景だ。原宿に行けば、原宿に集う人間の好む風景に出会う。御徒町へ行けば、ある時代を切り取った商店街が並ぶ。新しいものを受け入れるのが、原宿であるなら、御徒町は、昔から住まう人を保護する。もちろん、相互にやり取りはあるだろう。店にいつも通うのに未だ顔も覚えられない悲しさにみきりをつけ御徒町へ行く。顔も見飽きれば、原宿へ行く。では、いつまでもよそよそしく顔だけは覚えたが忘れたいならどこへ行けばいいのだろう。

 私が元気な時、私は過去の失敗を忘れている。過去の失敗は燃やそう。燃やして文章にしよう。恋のはじめは瞳孔をこじ開ける。無数の光線が網膜に照射する。一体全体僕は、恋は決して盲目ではない。認識は鋭利を極めエネルギーが湧き出る。ハイの状態。それを、涼しそうな目をして眺める者、無関心になった者、憎む者、嫉妬する者。様々な視線に瞳孔は耐えられず閉じようとする。恋は終わるか。恋と愛は別か。延長線上にあるのか。芥川の文体は私の精神を安定させる気がするのは確かなのか。マツコデラックスと韓国に旅行へ行き、仄暗い柵を越えて太ったマツコデラックスが穴に埋まってよじ登り逃れられなくなった。僧侶が修行をしている。その土の下には骨。眼下に火を帯びたような暖かい町。認識を正確に言葉にするか。唯一、期限のみが人間を解決させる。時間のみが。人間それ自体は解決などなしえない。人は何もなしえない。ただ、約束事に従ってその通りになるだけだ。約束事がなければ何も人は成し遂げられない。つまりは、契約だ。契約は世に溢れ、集団に埋没し己の個性から逃れられる。自分の面を見なくてすむ。毎日鏡を見れば人は発狂するという。集団は人間を鏡から遠ざける。人間関係のみが一人の人間をあぶり出すとき、人は自由を失う。問いは尽きない。

 

記憶

 記録には残らないが、記憶に残る人間というのがいるだろうか。記録がなければ、いなかったに等しいのが現代ではないだろうか。記録がなければなかったことにできるのである。因果関係を辿れば必ずそこにいなくてはならない人物も、昨今の論理を超越し無視する世界においては因果は重要視されず記憶は忘れ去られていく。統一的な歴史観が形成され人々の個性は失われる。幸福な人間は多種多様だが、不幸な人間はどこもかしこも似ていると言われる所以もまたここにあると言って良い。幸せになりたがるのは、イギリス人くらいだと言われる、誰が言ったのかわからないが幸せになりたいという人間の意を読み取る時人、幸せなんて先になればどんなものなのかわかるだろうと考える。欲しがれば欲しがるほどに遠のく。決して手に入らない。もし手にして仕舞えばあとは不幸せになるだけじゃないか。幸せを掴むとはついには不幸を孕んだとも言える。

分析の目的

 分析の目的は自分を相対化することだ。世の中に違う人がいて、私の価値観と全く違う人間もいる。私は何も好きじゃないから、誰も嫌いになれない。好きな食べ物がないから、嫌いな食べ物もない。なんでも、パクパクと平らげてしまう。好き嫌いがないというから、この世の中は生きづらい。世間を秩序付けるのはおそらく、暴力と醜聞であろう。刑法は世間を形成している。法律がなければ人々の心は安定しないだろう。はつらつとして隣で血を吐いた人間が死んでいるかもしれない。死ぬのが怖いか?死が怖いか。無視の亡霊に取り憑かれるよりも、私は死を選ぶであろう。どこかで見た他人の笑顔があまりにも他人行儀とイライラするのだ。イライラとはつまり、言葉にならない感情の発露であろう。なぜ、言葉にしないのか、できないのか。ある認識を予感はしているが意識の下に持って来たくないのである。なぜならば、そうしなくちゃ今の生活なる秩序が崩れてしまうから。つまりは、追求よりも安定を人はもとめる。一攫千金の島を目指して外に出るのは少数であろう。嘘でもまやかしでも浮気でも痴漢でもいいから、この世にとどまって、同じような趣味を持った人間たちのアホを見る目にさらされていたほうがいいのだ。私は人間に期待しない人間が嫌いだ。彼女らは人をコントロールしているつもりでいるのだろうか、飼い慣らされない自分の魂をうまくコントロールしているだけであり、全く制圧していないのだ。魂の解放とは、つまりは何を意味する。私は、私を殺したいと考える。西洋風に自分の意見を言うのも難しいことではない。日本人であればなおさら簡単である。ただ、西洋の真似をしようとしている人間のみ何も意見が言えないのである。彼らのは意見ではなく、どこかで記憶してなんとなく放り投げて頭の片隅にあった資料でしかない。考えられてもいない資料を渡されてこれが意見だという。そうか、これが君がどこからか持って来てコピーアンドペースとした意見なんだ、なるほど・・・。

 

戯れもほどほどにしよう。近頃かけない。書けないのはつまり精神衛生上素晴らしいことなのかもしれない。自分の気持ちを表に出す努力をしようという気力が萎えているのだろうから、別のことで疲れ果ててもいるのだろう。挑戦なくして意見は決してない。意見は彼らを拘泥させる。人を動かすのは意見ではないのを知っているのにそれを認めない。人を動かさないことに決めた。学問は自分のためにするものだ。労働は?他人のためにすることだ。だから尊い、という言葉をもたせてやり慰安してやらねばならない。全くもって、言葉の政治学であろう。言葉は決してそのような利用法に、世間の好き勝手のポピュリズムを嫌悪しているであろう。私もまた、言葉を救いたい。

世界よ

 世界について語るほど情報が高になり人々は足元が見えなくなってしまっている。どこの芸能人が何をしようと関係ないじゃないと言えなくなっている。有名人がやっていることを真似したがる心が貧しい。卑しい。自分をないがしろにしているじゃないか。テレビなんて、見てもいいけど。見てもいいけど僕は見てほしくないんだ。なぜならば見方が面白くないからだ。テレビのやり方はしつこさにある。やる気もないことに時間を費やし炭もしない部屋につき10万円も捨てて何をしているのだろう。僕はよくわからなくなってしまったのかもしれない。それはもうずっと前から予感していたことなのに。

かすれる目の中起きる。体の汗が頭皮を濡らす。今読みたい本は、樋口一葉日記、伊藤仁斎の行状、本居宣長のあしわけおぶね、である。目もついでにここに書いておこう。さーて、きょうはどんな1日になるかなあと!言葉はしみじみと語るべし。良寛の言葉だ。忘れないやうにしなくては。良寛さんはいつも笑って子供と遊んで、出世するの面倒だと思い、普通人の、それでもなんとなく出世の中に身を置きながら足を突っ込みながら生きるのではなく、中途半端にダラダラと、しっかりとだらけて生きた人だ。その力の抜け具合に後世の人は魅力を感じてもいたのだろう。夏目漱石良寛を気に入っていたという。特に、書ではあるが。三島由紀夫とは反対だ。彼は近代知識人で、富国強兵が身にしみていた。国のために己を捧げるのを夢見ていた。自分を贔屓してくれる人を探すのを頑張った。才能はもちろんあったのだけれど。彼の美文はやはり平安朝文学から来るらしい。しかし、後になってギリシャ的白黒した世界に身を委ね、日本は陰気で好かんと言い始める。確かに。笑っているのか嘲笑しているのか日本人はわからない。賛美なのか皮肉なのかわからない。実に気を使う。独特だ。面白くないなら笑わなければ良い。面白ければ笑えば良い。皮肉なんて言うのはまず男らしくない。女も目指すは男なのだから皮肉など言わぬがよろしい。私は皮肉が嫌いだが、関西の方へ行くと皮肉がウェットに効いて来るらしい。交わりの中で少しクスッと笑えるマウンティング的な表現が皮肉である。言いたくても言えないことを責任もなしに皮肉といって放言できる。精神的にはそれも良いのか。黙っていれば、本当にいつまでも黙っていららる、と三島は日記に書いていた。そこでは純粋な物言いも日本の習慣に掠め取られ相手に皮肉と受け入れられる余地のないことはない。李下に冠を正さず。思ってもいないことは言わない。良寛戒語にそうある。

無私

 無私が難しい。すぐ考えてしまう。自分は他人にどう見られているのか。私の格好はおかしくないか。私の思想は暴走していないか。暴走してこそ本領を発揮して私は十分に元気になれると信じている時期から抜け出せずにいる。書きまくるしかないのだ。人に見られておかしくないテーマ。少し気取って、ちょっとかじったことを伝えて陳腐な情報の海に垂れ流してというのが仕事のように思えて、すこぶる充実した人生といって死ぬのか。否、物知りが人生を知っているとは限らないのではないか。私に今必要なひらがなは、「か」を語尾につけることだ。小林秀雄が言うように、答えを知ってれば皆すぐに評価しますよ。皆のように考えればもちろん世間は認めてくれます。しかし、本当のってのは世間は死んだようにその人を扱うものです。私が老境に入った時に世間に阿鼻叫喚して絶叫して説教するようになるとしたら、よほど傲慢に生きて人の話も利益になることばかり聞いて他人の利益ももちろん含めて、利益利益で生きてきたが、果たして本人は利益と世間がありがたがるものは手に入れたが心には大きな穴があくばかりで、ニコニコとその名声にあやかり笑っちゃいるが、心の底を避けやら過去の経験談、そして、経験談から生まれた産物を披瀝する人生になるのか。私は評価しないであろう。いくら世間が私を攻撃してきたとしても、私の方で投げ打つ手段があればいい話だ。その覚悟があればおどおどせずにすむじゃないか。私も根っからの悪じゃない。強欲でもない。ただ世間には脅しを持って力技をかましてくる奴らがいる。敵対せずに温和にやる術もあろう。しかし、私は敵対する。それはもはや私が馬鹿と言われても良いほど自分の好きにした結果なのだから、人からの注意をありがたがっても、私はその意を汲み取りはして感謝はするが決して従いはしないだろう。そう思うのだが、いかがだろうか。孔子は言った、昔の人は学問を自分のためにした、今の人間は学問を自分のためにする、と。金を儲けるために経済学を学び、就職率がいいから理系に行き、公務員になるために法律をかじる。彼らは何を学んだのだ。自分に鞭打って女にモテ金入りのいい医者になる。それだけじゃ長続きしないから、すこし哲学やら文学をかじり、悦に浸って、人類の生命について超越者のようなかんじを持っているかどうかは知らないが、とにかく適当に痛みを取り除き、死から地獄へと引き返させ、医者の倫理なんてものはとっくになくなって一億総白痴化一億総ヤンキー化は進んだわけである。静けさは、ノリのいいテンポのjpopに侵されてまずい飯のすき家吉野家で、耳からも臭い曲が流れてくる。コンビニでは死んだ目の店員や、おばさんと言われる生きることに関して海賊の感じのある外国人、そして、汚い笑いに身を委ねもはやクリーになることなく下衆の極みな男たちがはびこる。スーパーへ行くのも、コンビニへ行くのも嫌だ。私は嫌だ!料理をするためにスーパーへ行き、そこで働く人間たちこそ私は信じている。いくら金を積まれても不正はしないと言うことを。いくら好条件を出されても自分の体を売らないことを。私はそれを、願っている。一番期待しているのだ。それに比べて、仕事に疲れたとやめればいいのにやけくそになって浮気する男も女も私は近づきたくもなければ話も聞きたくないのだ。そんな話をありがたがる奴はろくな奴がいない。誰かの間接的な不幸、つまりは、浮気をされた男や女の感情を無視して、あんたも悪いわねとか言って、まるで共謀し、浮気ものを助長し自分も一役買っている気分に浸る男も女も皆私の前から消え去って欲しい。男を、金を稼いでくる機械と考え、女を母のように慕い甘え奴隷にする男も女じだ。私の文は何回も読むに耐えず、察知した感覚の私の心を通り過ぎたところを感知し文章になっているのだ。汚い労働者も白いシャツの奴隷も、スマホ片手のリクルートOLも私の視界に入れたくない。気を取られやる気は削がれ行動は妨げられ快活さを失い死に落ちるだろう。高名な空手家の言うには、人の目を見ちゃいけない、人の姿すら見ちゃいけない。それでいて相手と対するのだ。まさにそうだと思う。私は今まで忘れかけていた言葉を思い出しなんとか私を取り戻そうと必死になっている。私と言うとき、そこにはやはり自由がある。世間からの避難所がある。私がないと世間の、言いなりだ。評価ばかりを気にしてついには奴隷となり感情喪失する。目は死んで、気力はなくなり、病気か事故で死ぬまで死人のように生きるのだ。私は達観したくもない、善人ぶりたくもない、ただ、学問がら自分のためになされるのを自覚していたはずが女との遊びで忘れてしまったのだ。女に学問は必要か?学問は男のためにある。女から自由になるために男はたくさんの楽しみを持っていた。それを女が入るようになり、そして、女への見栄っ張りがはじまる。どこでも女が来れば、統率は挫かれるであろう。統率なんかなくても、女はその感情で連帯しおそらく男が思うよりはるかに集団的になり世論を形成しているではないか。女の意見なしに社会は存在し得ないのだ。男の思いやりの世界だけならば、おそらく男にとっては退屈な時期もあろうがなかなか楽しい時間に違いない。そんな男の気休めの時間に女のための時間を当てがえ難しくなるのも当然だ。そこで私はどうしたか?自己を捨て去ることにした。それは夫が稼いで嫁にあれこれ言われてもやるせなさに返事して家事手伝いをするような感じだ。女にとって男はいつまでも子供であって欲しく、ジェントルマンでエスコートしてくれる臭いキモいおっさんにはなんかなって欲しくはないのだ。なぜならば、男が女を支える社会はつい最近崩れたからだ。父親が家計を賄うのは稀になった。経済的庇護を父親のみに頼りお嬢様に育てられた、いまどきめんどくさい女には勘違いした馬鹿男がつくといい。それはお互いのためにいいであろう。もちろんその経済力があれば、ふたりは自分たちのスタンスを崩すことなく結婚生活とやらを営めるに違いないが。その場合男は必ず浮気するであろう。もしくは、女を捨てるだろう。そして、気づき再び別の女と再婚でもするのだ。捨てられた女はたまったものじゃない。旦那は所詮他人とは言いながらも向こう三軒両隣。近い人間関係は遠い血の繋がりのある親戚よりも力強く彼らをサポートしてくれるに違いないのだから。私は書きたいことが山ほどあるのだどれも、文字にするよりも言葉にして口にして喋った方が、その都度相手に合わせてこちらも気分を変えながら話せるのでよいと思っている。私は癖ですぐに他人の恋愛に興味を示していたが、今はそうでもない。恋愛の数だけ他人があり、人の数だけ恋愛があるのだ。全くおんなじ恋愛などない。そんなものは湘南の海で、しか得られない馬鹿男と馬鹿女の、自由なお遊びの中で展開される規律の整ったスピード感のあるベッドインでしかない。私は興味がない。

 こうも書けないのは、思っていないからだ。世間の見えない迫害に将来の不安を感じ取って先取り批判する力の衰えと、私自身樋口一葉の言葉ではないが、身をすてつるなれば世の中の事何をか恐ろしからんの精神に依拠しているのかもしれない。私はこの世に生きていて身体を持つが、魂をおさめるのが私の一番の至福であり身体はどうでもよいのだ。下半身の楽しみも、私の上半身の楽しみを超えることはなかった。セックスも快楽というよりも慰めでしかなかった。そして、私は自分を慰めが必要なほどの人間とはおもはないやうに気を張っているのだ。私自身、考えと行動の相反がこのやる気のなさに通じ行動を妨げ、矛盾する人間の言葉を行動により示し、また言葉による自己の統一と他者からの信頼のためにある組織に属し決まった動きをせねばならない必要性の亡霊に取り憑かれている。

 ここで、ジョンレノンの言葉を紹介したい。誰も読者がいないのは承知であるし、こう書くことで私が他者からどう見られたいのか、また他者からの誤解を避けたい、そして何より、自分がそう言わずにはすまない気持ちから自分の言葉を発する時の様子を細かく書くのだ。私は今日ここで私の、全部を投げつけたいと思っている。 ジョンレノンは私の心だ。彼はLOVEという曲を作った。シンプルで美しいメロディに言葉の意味を旋律に変えて人々に感じさせるギターに万年筆のような親しみを覚えた。私はジョンレノンのようにいきなり、知らない誰かに銃で殺されてもそいつに文句を言わない。oh my loveには、ジョンレノンのオノ・ヨーコへの恋の色褪せが感じられる。恋は色褪せて愛に変わり静かに時が流れ三途の川がきこえる。その川の流れは澄んで清らかで涼しくて、たまらないのだ。決して身体を忘れることなかれ。彼らの初老の身体はしっかりと、映像に残されている。そこに愛があるのか、ないのか、当事者以外には常に不問である。

 三島由紀夫も忘れられない。彼の文章は私の情緒を確実に安定させた。日本語がしっかりしていた。また、心理分析も彼の得意技であった。現代は心理分析と称して、個人から集団の普遍的な、心情に行き着く努力をせず、個人の感情をそのままアイドル化し神格化してそれに、従うか、共感するかで人間が形成される自己乖離ばかり目にする。現代社会は、人間の心情から離れすぎている。私は、昔の人だからという理由だったりでももちろん今を嫌っているが、何よりも、ニュースが気にくわない。ニュースは一向に、新しくならない。アナウンサーが変わり、ズボラに思ってることをはっきり言える時代だと風穴よろしくと良好かと思いきやどうだろうか、人間は目配せ一つでも事実の重みを伝えることができる。現代の顔は多様な感情を、失ってしまって映像にばかり気を取られ人々の心は麻痺し脳は停滞している。それくらい刺激が強くてもう我々の頭は自然を愛せなくなっているのだ。もしくは自我に執着して自分を忘れられないのだ。忘我こそ人間の本質である。

 小林秀雄は、決まり切った道徳をもっともらしく語りもっとらしい言い方で批判した人間だ。親孝行などすすめなくても子供は孝行の気持ちを親に対して持っているものだ。それを子供にとくとはつまり、道徳を壊しているのは、道徳を教える奴の方ではないか。小林は人間通でもない、弁論に長けてもいない、ただ素朴に人間を感じていられた。それを能力であるというのなら勝手にそう思えばいい、その能力とやらを獲得するために何か努力をして結局は全山違うものを手にしそして忘れた頃にその能力とやらがいつの間にかふところにある瞬間を、そういうった経験をしてみるがいい。現代の資格社会はダメだ。点取りのために、人は、勉強をしなくなった。昔は、生きていた人間を殺したろうし、昔はどうでも良いことを争いごとに引っ張り出し金を出させある1人の人間の生活を、壊すのに成功した。今の時代は、思いやりのない時代である。表面的にいくらでもそのような言葉は吐ける。ただ、行動は伴わず沈黙は耐えきれず人を信用せず本当の愛は自分の中にあるのに集団で恋をするようになってしまったのだ。今の人間にはプライバシーがない。プライベートなる時間もない。いつも公的なものと繋がりの、模範的に生き説教が怒りの爆発となる時代だ。暖かい気の利いた説教など誰もせぬ。怒り任せの義務的な淡々とした皮肉しか、ない。そうとしか捉えられない自分がおかしいのだと思えば、もっと相手に聞くことだ。自分を差し置いて喋ることの大切さを知るがいい。

 そして、ラカン。フランスの精神分析学者である。彼の理論よりも、彼の理論を説明した日本人の解説者に納得した。ラカンは私の性善説を全て壊してくれた恩人だ。善人溢れる社会で私のような悪人は居心地が狭い。皆悪人としれば、あきらめもつき罪悪感から逃れられるだろう。神が死ねば人は許されない。

 コジェーブまで読んだ。精神現象学。これは人間の精神の分類と発展の、書であるが私自身あまりにも理路整然として流れに疑問を持ったが、各論に書かれてある内容はまさにその通りといった印象である。私は、人の言葉をそのまま受け取る力に欠けているのかもしれない。騙されにくいけれども、また、信じようとしないために純粋でないとかいう印象を与えるであろう。言葉を保証するのは、いつも行動である。

 ソクラテスは、行動した。毒杯を仰ぎ、潔く法の下で、死んだ。彼の産婆術は人の思いなしをすてさせる力を持つ。心を空白にし、真っ白にし真実だと呼ばれる思い込みを捨て去らせる。そこから、人間は新しく歩き出すのだ。自慢はするな、決して。その自慢のために縛られ拘束されつまらない自慢のために口を動かす機械になりかねない。私はかつて父と仰いだソクラテスだ。実に、痩せた、ソクラテスとなり死よりも尊いもののために死んだ彼の魂は美しかった。

 まだ生きてはいると思うが、ひろさちや。彼もまた仏教学者であるが軽妙な、語り口につい読んでしまう。内容はどこぞの革命よりももっとも革命らしい、すなわち、引きこもりしている人に、もっと引きこもれと言うのだから。それがお釈迦さんの用意したストーリーだから、何をどうしようと悩みたいなら悩めばいいし悩みたくないのなら悩まなければいい、全肯定がそこにはあった。また、ひろさちやさんは今は老体でインドやら行かないだろうが現地でタクシーに乗った際に、時間に遅れそれもアッラーごなしたことだからと悪びれない運転手の話をしていたりと、読み進めるごとに楽しくなる。自由になる書物である。世代的に、戦争を小学生頃に、経験している。そして、現代まで生きてきた。ある意味もっとも身近でもあった。小林秀雄はもっと昔の人だ。

 そして現代、私は読むべき人がたいして見つからぬ。皆嘘ばっかし書いては読み手を納得させるものばかり書こうとしている。それで読者は馬鹿になり、つまらぬ本を手にとっては浅い知識と哲学を振り回すくらいが落ちで、何にも楽しくない。つまりは、著者が苦悩していないのだ。苦悩しているかのようにみせかけようとしている。それだけだ。説得だ。党派根性だ。くだらない。党派を超えて人の心に話しかけ寄り添いながらも情熱的な本などないのか。わからない。わからないが、仕方ない。誰が書く?

 まだまだ私も、説得文しか書けない。つまらない。誰を説得しようというのだ。自分が信じていないものを人が信じれば自分も、信じる。まるで保護者がいないと一言も喋れず動けない人間のようだ。私自身はおそらくそうである。父母に何か命令されたいがそれを聞き出すこともしない。今の苦痛もこれに根ざしている。だから父母を恨む。そんなところだ。だからと言って自分を責めたりはしない。誰が私をせめようか。皆であるし、誰でもないのだ。許せば、私は誰からも責められよう、そして、許せば私は謙虚になるだろう。弱さを虚勢で覆い隠すことをしないであろう。現代人は弱く脆く決められたレールをひた走る。人生にドッキリも落とし穴もないのか。それは平和だ。神経も持つ。体はもちろん。健康に秘訣だろう。長生きは。幸せか?もちろん幸せであろう。しかし、かっこよくはない。そうか?いや、かっこ良いのは一部だ。凄まじい肉体への知識だけがなしえる。私に可能か?わからない。ただ、年長者の話は面白いのは確かで、若い教授の話はおもねりがあけすけみ見え透いて閉口。

 もうひとり、火野正平。彼は素晴らしい。彼の生き方こそ私の生き方そのものかもしれない。本を出したらしいから読んでみたくもある。やはり、本を読まないと私はダメだ。