アウトプット

相手の視点に立ってみよう

女はコミュニケーション能力高いか?

恐らく、男性の多くは女性のコミュニケーション能力を信じている。コミュニケーション能力とは何かを問わずに。

 能力、つまり、何かを獲得する力。その手段が会話ってこと。つまり、貢がせる女こそコミュニケーション能力が高い。

 しかし、男の永遠のヒロイズム、女の近代において得られた明文化されない特権のよれば、男から女への贈与は、男女間に前提として存在する掟である。

 そして、コミュニケーション能力とは、贈与の意味だけではなく、相手に受け入れられるように上手に意を伝えることでもあろう。それに応じる人間もまた、相手の意を読み取らなければならない。寡黙な男性であっても、コミュニケーション能力はある。おしゃべりな女性が、コミュニケーション能力があるとも言えない。(このような屁理屈は女性の嫌うところだ。法律は原始的に女性のためにある。もっと言えば、暴力的になれないもののためにある。つまりは、平和を好む者たちの約束事だ)

 2010年前後、コミュニケーション能力についてとやかく言われ始めた。それも、流行りにすぎなかったと2017年になってわかる。当時はまだ、男性が働き女性は家事をすることのできそうな雰囲気であった。明治時代から続く観念の終焉の時期だったのだろうか。コミュニケーション能力と称し、男女の一方的な定型化された贈与を復権しようとする無意識が、コミュニケーションを大事と捉えるようになり、意識するに至ったのだろうか。意識に表れたものは、段階として無意識の中に発芽していた。花が咲いたのか。繁茂を繰り返し、時代が緩やかに覆われていく。

 時代を認識する人間が変わり、時代も変わる。人間の営みが作り出した景色。無意識的であれば、作り出された風景だ。原宿に行けば、原宿に集う人間の好む風景に出会う。御徒町へ行けば、ある時代を切り取った商店街が並ぶ。新しいものを受け入れるのが、原宿であるなら、御徒町は、昔から住まう人を保護する。もちろん、相互にやり取りはあるだろう。店にいつも通うのに未だ顔も覚えられない悲しさにみきりをつけ御徒町へ行く。顔も見飽きれば、原宿へ行く。では、いつまでもよそよそしく顔だけは覚えたが忘れたいならどこへ行けばいいのだろう。

 私が元気な時、私は過去の失敗を忘れている。過去の失敗は燃やそう。燃やして文章にしよう。恋のはじめは瞳孔をこじ開ける。無数の光線が網膜に照射する。一体全体僕は、恋は決して盲目ではない。認識は鋭利を極めエネルギーが湧き出る。ハイの状態。それを、涼しそうな目をして眺める者、無関心になった者、憎む者、嫉妬する者。様々な視線に瞳孔は耐えられず閉じようとする。恋は終わるか。恋と愛は別か。延長線上にあるのか。芥川の文体は私の精神を安定させる気がするのは確かなのか。マツコデラックスと韓国に旅行へ行き、仄暗い柵を越えて太ったマツコデラックスが穴に埋まってよじ登り逃れられなくなった。僧侶が修行をしている。その土の下には骨。眼下に火を帯びたような暖かい町。認識を正確に言葉にするか。唯一、期限のみが人間を解決させる。時間のみが。人間それ自体は解決などなしえない。人は何もなしえない。ただ、約束事に従ってその通りになるだけだ。約束事がなければ何も人は成し遂げられない。つまりは、契約だ。契約は世に溢れ、集団に埋没し己の個性から逃れられる。自分の面を見なくてすむ。毎日鏡を見れば人は発狂するという。集団は人間を鏡から遠ざける。人間関係のみが一人の人間をあぶり出すとき、人は自由を失う。問いは尽きない。