アウトプット

相手の視点に立ってみよう

記憶

 記憶をたどり記述する作業に写実的要素のある内を言い争ってそれは、客観的であるように見せているに過ぎず主観を客観と偽り大衆を巻き込み自らの考えのなさを他人の考えを借りて口述試験する毎日にうんざりとしないわけにはいかないのだろう。物事を考えるよりもまず皆と口を揃えて社会問題を問題化するのに躍起になり役職を与えられ問題が人間を集団化させ敵を作り出し集団の拡散と集中力の低下を防ぐ。一人でするより集団で物事をすれば効率よくひとつの利益を得ることができるがそれが誰の利益なのかわけもわからずとりあえずもらったものをありがたがる感性を持てば何をされても怒ることなく。怒ることなく静かに笑っていられるだろう。即ちは、我が感性の詩を予感したとしても我は静かに笑その予感の絶望をおくびにも表へ出さずに、否、出すこともできずに身を崩してつちに帰るか風に舞う我が骨の塵に魂は何処へ。

殺される夢

 今朝は殺される夢を見た。ある男が私が好きだった女を殺した。誰かもわからない。警察は相変わらずだ。犯行予告の生命が出た。オレンジ色の服着た男が殺されるという。いな、殺すというので、みたところ自分の着ている服がオレンジ色だ。これは大変と着替えるわけには行かず、そういった知恵は夢を冷めてから冷静なった時に思いつくとんちで、自分が狙われているとは露も知らず、なぜかといえば、確かに着ている服は犯人が殺しを予告している色の服ではあったが、人相はといえば、違っているように思えたからだ。そこで、何も知らぬところへ行き。夜中を自転車で走って犯人に出会う恐怖もありながら深夜徘徊といったところだった。すると、旧友が来て話すことに。あいかわず同級生は私と話さず情報を聞き出すのも癪なので無視していた。犯人は急に現れた。まるでドコデモドアのように。ドアというドアの向こうに犯人がいるようだ。一度、こちらに来る影が見えた。大きくなって、ついに私たちは殺された。なんと面目ない。しかし、私自身はその場にいて殺されたるは3名を聞いて、私も含まれていることがわかった。ある男が棺桶が見えるといった。私は好きだった人の顔を見たいと思ったのだろうか。妙に興奮した。死んでいると感じているだけでも何か妙な興奮があったが、それも胸に動悸がするようなものでもない。とりあえず、私はどこかへ向かったのだ。そうだ、どこへ向かったのかしれない。僕の勝ちがテストの点数であるとするならば僕はおそらくは貧しい人間であったから私は今ここにいて滋養しているように思われてきてならない。夢占いによると殺される夢は再生を意味するらしい。ユングも夢の集合知を集め夢の持つ意味が無意識に集団内に共有されるある種の身体を保護する拘束具を見出したのかもしれない。春に向かい植物は冬の寒空知らずめを出しうららかに何も知らない顔に向くの笑顔を浮かべ春風に揺られる。どうすればよかろうかと途方にくれた寒空も乗り越えた草たちは枯れて死んでしまった。栄養分を蓄えた土の上にて耕され大きく育ち花は目を出すのである。

 かくかくしかじかなる訳によりやる気に火をつけられ動くは、稀なり。自らのやる気のなさを一層あらわにし見つめる格好の機会であるより他はなし。もしくは、やる気を買われるようなことも買う相手の主従関係を表に示す習慣からくるものなり。やる気などにかかわることは避けて自ら体を動かせば自然と意は後から付いてくるものなり。とぼとぼと付いてくるよりも、我先にあらんとした顔で意が付いてくるものなり。行為に理由を求める精神が、行為より以前に意のあらんことを欲するためである。その心は、相手を意によりいかなる行為をする主体であるか見極めようとする合理に基づいており、また、契約書なるものの履行を求める際にも意は、行為の人質となり不履行なる際に意にその責任を課しさらに行為させるのを求めるためなり。意は、行為の前になし。行為と意が同居することが習慣なり。習慣をつけるにまず意を先に求めるのは失敗の元であり、はじめはその虚妄に疲れて行為するも後々になって行為の前なる意の虚妄が力を失い行為をするにまた別の虚妄のかたちした意を誰かにより与えられそれを我が物にし行為するなり。誠に、意の本質を間違えている。行為にこそ意は宿るのであり、意に決して行為は宿らない。

 意が欲しければ行為することであり、行為とは意を生み出す母体である。行為を終えて初めて意が明らかになるものなり。想像の中に意は明らかになることなし。意はまた、行為の占有物なりて我は行為のみなしうる。相手に好かれようと閃ために相手を思い続けるだけでは飽き足らず相手を文中の蘇らせるのもまた行為なり。それが極まれば書くことなくして相手を思うだけで相手を心に浮かび上がらせ蘇らせることができるなり。誠に愛する人もまた虚なり。虚は生きも死にもせず。ぼんやりと思い出されるように存在し息をする。

 意は、行為を欲している。行為の中に意が生きて存在感をあらわにする。意こそ人を行為に誘惑する女の女体のようであり、女は行為する男を好むのもまた、意こそ女であるためなり。行為せぬ男は女のいない殺伐とした世界に住むも、女のいる世もまた女の理不尽な意により殺伐とせんこともあらめ。

 

朝一滴のコーヒーが私の頭を地獄から救い出してくれる。霧が晴れて世界に対し閉ざされた末梢の神経も手を広げて背伸びする。朝の光に包まれて私は1日を創造的に作り出すように努める。コーヒー一杯の力恐るべしと、彼女に言ってもわからぬか、朝が嫌いと抜かしては抜くっと起きてコンタクトを取り身支度すませて出て行くまでに時間はかからぬ。

 金正男の長男がクアラルンプールの空港で女に殺された。殺されても悲しまれない男はここにもいたか。マカオ行きに搭乗する予定だったというのだ。どうせ事件ならばこれくらいセンセーショナルなものでなくちゃつまらない。家族でディズニーへ行きたいと日本に来たこともあるこの男性は実に面白い自由人であるに違いない。悲しまぬ身内もいないことはないのか。しかし、悲しませるようなことはない方がいい。冥福を祈る次第である。

 朝からまじめくさった文章を書くくらい私は健康的である。気について話してみたいと思う。気は発散されるべきもので悪気は外へ放出され消化するべきであるに違いない。あっけの外部への放出が必ずしも他者に悪い影響を与えるわけではなく一つの行動主体のエネルギーとなって創作意匠を与える。遠慮して気を体の中に閉じ込めておくと人間の臓器なりのうなりに悪い影響を出して神経は逆立ちビクビクしてそれが外部に伝わり見た目の悪い人となりかねない。一体顔に気分が出る人間は顔から気を吐いているに違いないし私は文章という形を借りて気を吐いているに違いない。文を読むというのもまたそれに準じる行為としてあるのかもしれない。

 

反応

何かを見て否応無しに反応して、その反応で私は神経をすり減らし続け性を感じるすべての人間はマゾヒズム的であると結論付けて仕舞えばもう世界について思案するすべての出来事から解放されるだろうか。ある結論に到達し世界の解釈をすべてそれに帰着させるよう当てはめて世界に法則性を見出そうとする無理をしなくちゃならないとすればいかにもこの世の中は生きずらかろうと思われるのである。一体全体消費のために人間は健康を向上させられているという状況において社会に反対すれば不健康となり私の生命は喧嘩の挙句に殺されて死体は誰からも思い起こされることなく空気の煙となって消え去るのであろう。私は自らの日を誰にとがめられるでもなく感じ、私からの自己攻撃になすすべなしと半場諦めかけ、社会の私をいじめる対象に私は乗り移って自らを現実的物理的に攻撃し続け痛め続け早く死ぬように仕向けている。誰が私の首の解釈人となってくれるのか探し続けるこの牢屋のような世界観年の中でその外にで多分私は連れ戻され、自由の空気を吸うことなく私は生き延びる。どうしても男は危険とスリルが必要であり汚いものでも厭うことなく愛することができるが、女は違うのだ。清潔であればクリーンな豚でも家の中で養っておけるという潔癖さの中にある。コンドームをしない私が咎められるのも当たり前で当然だという顔をして私は私の責任を笑いながら咎められる。笑いながら言葉もなく別に責任は取るといえば無責任と言葉は無限に帰ってくる。そのやりとり自体に何か一つの答えではない形があるのだろう。女にとって中身は決して必要でない。からっぽの男は想像力のある女に与えられた規律によりいくらでもロボットになり冒険を冒険と思わずにいとわず恐れに勝つことなく死の淵まで出かけて行っては飛び込み奇跡的に助かれば女も儲けものの涙を流し永遠の愛を垣間見た気がして夕日の中に明日の白けた朝の来ないのを祈る。電灯は消され夢の中で私は苦しみ悶え自らを危険にとするあらゆる手段を、頭の中でディスカッションするだけのことも一つの戒律を破るような思想であるとせずして、自ら制限を課した自由に私は安定しながらも不満足である。

 幸せであるとか幸福な話を聞いて幸福になれるときすでに話を聞く前から幸福であるに違いなく、私は人の話を聞いて元気付けられたことなどない。すべては私が私なりに理解したことを再度他人の口から確認するように言われたときに私は他者の言葉を受け入れ理解する。他者の沈黙のうちに私の自信は熟成され育てられ天衣無縫の軽さで雲の中に隠れて行ってしまった。今頃太陽に温められ夢見心地にのうのうと漂っているのか、雲のうえに。天才性を疑わないのが私の人生であろう。交渉の中で私が感じるのは、交渉や関係を行おうとすればするほど孤独に陥っていく運命にある性の存在の確かさである。

 私の天才と孤独性と判断力をもってすれば己に何が不足があろう。世の人を、どうして私と比べ、私が働きもせず金が入ってくる私の身の上を卑屈にもなって痛めつけなくてはいけないのだろうか。私はその代わりに十分苦しんでいるにもかかわらず。周囲から見ればただの間抜けの怠慢野郎にしか見えないところに怒りを感じているのだ。諦めもまた感じているのあろう。私は故郷に帰っても何もない。両親にすべての責任を帰するのも考えてもそれが有効であるかどうかというよりもまた、倫理的観点や倫理感覚からでもなくすべての意見臆見正当な自己主張をぶち壊した先にある私ではない世界を見てみたいのだ。私は偏見の塊である、その偏見をいかに壊すのかが私に運命付けられたすべてなのであろうか。

 うんめいはわたしがうごかせないものとていぎするときにわたしはうんめいについてかたるいっさいのことばはしらじらしくみのうえにおこったふこうはうんめいのごみばこにいれてわすれさるほかにうんめいのつかいみちなどないときめかかってはよのひとのこころのしょうあくさのしれるはみずからのしょうあくさとのきょうめいのうちにみいだされるのだとはんばそうおもっているわたしにいまのじせいはいかにもふゆかいでいきづらさをかんじないわけにはいかないけれどもわたしはくるってくるっていかにもくるってしまえばこっちのものだとかんがえてみてはどうかとみずからにかたりかけるもがんらいのがんめいなるみみはこまくのやぶれたろうあのようにこちらをみむきもしない。

 ニュースに反応しないよ私がいかにもニュースに憎悪を持って返すとき、ニュースのやつはまんまと我々を取り込んで笑ってやがるんだ。マスコミなんてものを趣味も感性も腐った下劣な国民のために用意された白痴のための栄養剤であると蹴り飛ばし、あの世に天国を想定するよりもスカトロ三昧の糞尿ぶちまけ装置を家庭に一台おくことで色彩豊かにゲロの色は艶やかに豊かに、緩やかに気色の悪いアナウンサーの脱糞した話し方と殺人事件、強盗、政治家のゴルフの話で安保条約が変わって欲しいとでも言いたげなアル中おじさんの足の臭い水虫のような与太話を腐ったマンコ臭が臭気を漂わせながら、四角いカメラの先に待ち構える汗臭い男どもに画面を通じて自慰を催させる電波の形成する嗅覚の想像力に視聴率という冠をかぶせ、ゲロまみれのシートを鼻をつんむこともできず、両手両足縛られ、いいだとか悪いだとか判断させられる地獄を見ては、ちゃらけた音楽と能天気な効果音に不細工なアイドルと真面目で退屈なイケメンを配置して、一体テレビなんてものが普及して人間の想像力も型にはまってしまっているのだから見せ方を変えればいいものを、老人たちに合わせて低俗な番組を作っては流して一喜一憂している。若者こそテレビなぞ見てはいけないし、ネットで検索してすぐに答えをだと思われるものを探し出しよをわかったふりをしてはいけないのだ。私は身をもって思うのだが、知らない方がよほど賢い出来事があるのだこの世の中に。なぜこれだけ世界が労働の苦痛に満ちているのかといえば、労働する人間の適性に合っていないからであろう。

 女性遍歴を書けば私の描く女が蘇り、私は一人一人に賛辞を送ろうと思う。しかし、私の記憶力が著しく都合よく悪いために良いところしか思い出せないのだ。事実、私は女性と関係して何一つ嫌な思いをしたことがない。つまりは私が嫌なを思いをさせる側だったのであろうかと考える罪深いが私のような男に引っかかったと彼女らが思っているとすれば、悲しいが、それでも私という人間と付き合ってくれて感謝の気持ちを持ち続けている。私は一体何者であろうか。私は一体何を考えているのか。わからない。

自分

 自分は難しい。自家中毒に陥る。仕事をしていれば自分と付き合わずに済むから幾分楽だ。友達がいればなお、自分は乱れ外ばかりに目が行き己の不憫さを忘れられるから友達の存在はこの上なく素晴らしい。友達は必要だというのは弱さからくるものであり、友達がいないコトを広言し、友達などいないと考える奴もいないことはないだろう。ただ少し奇異に映るものだから少々目立って女どもに気持ちが悪いと言われる程度だ。女が何を言おうと一向に気にすることはない。女は自らが欲するものさえも自ら欲することができないのだから。なぜ、女はあんなに獣のような様相をして仕事をして微笑むことができないのであろうか。彼女らはありもしないものをあるように、装うことに気が滅入って疲れ果て夢の中で悪夢を見る。そもそも友達のあるなしで人の優劣をつける思想に吐き気がする。友達が多いほど、友達なんて相手は思っちゃいやしない。思い込みが激しいほどに気持ち悪さは増し、それを周囲も同じように思い込みの激しい輩の集まりであるから自らの弱さを救うために絶叫する。自分がいかなる人間であるかの自己言及をする必要さえまずないのである。面接を仮定してどう言い訳しようか考えあぐねるのが嫌いでしょうがない。ハプニングでしか人は本音で話すコトもなければ、偶然が人間を必然性の拘束具から解放してくれる。気まぐれだと自分で思うのもやめればいいと思う。何一つ私を言い表す言葉がないように常に私は逃げなくちゃいけない。何一つ私は私を言い表す言葉に出会わなくて結構であると思う。そう思えるのも一つの思想であるけれども、それに幾らか性格上の傾向が顕著になるときに私が出来上がる。世の人の生き方を真似しようとするよりも、自ら考え動いたほうがよほど自由である。どこの馬の骨かもわからないものを拒否する考えは必ず持っておいたほうがいいのも確かである。私は人を相手にする商売が向いているか知らないが、あまり相手の欲望を手にとって眺めるのは虫が好かない。私は怠け者でいつまでも変わらず太陽は昇っては沈む世界に生きている。それだけに何か意味を見出してテーマを持ち計画し実行しぶっ壊す生き方が近代人の行き方とすれば、今を生きるよう努めるのが現代であろう。将来どうなるかわからないという古代人の気持ちを近代においても持ちながら得ている人間が時代によって行動様式を変えたとしても人間の本性であるからして不思議でもない。何ら不思議でもないコトをさも、おかしなことだと研究する人間がいるのもそれは好き勝手にやったらよろしいのだ。もし自由になりたければ人に自由を与えなければならない。そうでなくちゃ私はきっと自由を手に入れることができない。いや、確信である。私は自由を手にするために私は裏切られなければならない。信用を破壊しなくちゃならないそれこそが自由への道である。この道がいかなる末路を私にもたらすかについて凡人が考えるような恐怖を鵜呑みに生きるほど私は愚かで馬鹿なのである。自己卑下をするなと言い聞かせながらせずにはいられないこの気性を根絶やしにしてやりたい。人間は思い込みではなく真なる動機から動くものである。そうでなくて何も動けやしない。やる気が出ないと嘆くのではなく飽きたのだから別のルートを探せばいいだけの話で効率を重視すれば人間のほうが非効率的になるという相関関係にあって、一体どうすれば素晴らしく生きられるか謎と愚問を叩く暇があれば本を一冊でも読んで少しでも外へ歩いて見ればいい話にすぎない。未来は我の手にありと自惚れるほど陽気でもなければ占いにあるほど私は自由を愛しているわけでもない。それが普通の人間であると言い切るほど私は普通の人間でありたいと欲している証左になるわけでもない。私は私を語りたいとも思っちゃいない。人々の思考が固定化しているのを感じるだけだ。私は諦める力があるが人々は努力が実らないことを嘆き恨む。それを感じる私はただ疲れるだけなのだ。しかし、立派な感受性とも言えない。感受性など私は持ち合わせているのだろうか。おそらく持ち合わせちゃいない。感受性といったとき私はもう感受性を捨ててしまっている。入れ物を見つけても中身を伴わない軽いものなのだ。一体どうしてこうなってしまったのかよく知っているのに動きもしない。動くのは私ではなく他者であると思っている。他者はきっと動きはしない。だから、私はダメなのであると太鼓判を押して自暴自棄になる程の面倒なこともしない。どうすればいいのか。嘘ばかりついて生きていれば嘘もまことになるのがこの世の習いならば嘘ばかりついてしまえと、踏ん切りがつけば私もくだくだしく誰も読みもしないこのブログに熱心に肩がこるほど文章を書きあぐねる真似もしないだろうと鷹をくくっているだろうけれども、私ほどに私の言葉を信用しないものもいないのだ。だから、近頃はもっぱら沈黙によって真実なりとも自らの態度を表明しようという行為にうつつを抜かし言葉への反応を失いつつあるのだけれども、考えてみれば意味が統一化すればそれは言葉が人間を枠に生えて踊り出す世界が浮き上がってくるのである。カテゴライズすれば人間は必ず安定し社会において安定をますます求めくだらない些細な規則を多く作り、それを重宝して次第に神経質になり生きるのも嫌になって川に身を投げることもないのだ。電車に身を投げて体が砕けたとしても、言葉は残り続けるしかないのだ。一体言葉に身を捧げるのを誰が進んでするだろうか。言葉とは私の代理であるとすれば、私自身の出る幕がないではないか。私はセリフを吐いてもそれを相手がどう受け取るか私が甘受しなければ全く意味がない。言葉は受け手の反応なしに全く意味がない。言葉をここにいくら書こうが他者に読まれることなしに私は何も書いてないのに等しい。以上の理由によって自らの言葉を自ら添削しなくてはならないことになったのだ。私は私の言葉を添削しながら模索しなければならない。他者は私自身となりうる。文章は素直に描かれる必要があるのだ。そうでなくちゃ私は私を他者として書き出すわけにはいかない。私は本音を重視しない。本音がいかなる形を取ろうともそれは理想と何ら変わりないと考える。疲れたといわれたら、眠ればいいと返すだろう。私は一体基地外になりつつあるのかもしれない。この世からニュースがなくなれば世界は平和に違いないのだ。怒りだとか我慢をしている人間ほど怒りっぽい人間はいない。優しい人間は忍耐力があるのだ。そして、優しい人間が増えてそれで社会をよくしようなどと考えるのは基地外の発想だ。一体人が優しいだとか怒りっぽいだとかどうでもいいことじゃないか。好きなように人を殺せばいい。できるもんなら、やってみろと言いたくなる。しかし、挑発は気持ちがいいと思えるのも、悪い酒に酔うのと変わりなく、何かこう静かなところに行きたいのだ。静かなところで静かに過ごし自らの精神を休めてあげる必要がある。私は私の人生からうるさいほどに次何をすればいいのかと聞かれて殺意が沸くのだ。私は、人生にうんざりしている。それは死を意味しない。死は憧れである。老人になるのが嫌だ。こればかりは私以外は皆嘘で塗り固めて素敵な老人になるのを夢見ている。老人なんて付き合うほどに老獪な奴ばかりでうんざりしてくる。奴らにあるのは、使い古されたビンテージと呼ばれる面の皮の色しかない。私は一つの結論にここで着地するかと思えば、飛翔する。決して止まることを知らない。止まれば爆発し私は永遠に凍結され動かなくなるであろう。私の姓が硬直化すれば私は実際に生きている意味を失ってしまうだろう。誰か私を助けてくれと心の底で思いながらも気力も体力も耐え目的は根こそぎ失われ愛のためにいかなる苦痛の元にいようとも私はこの苦痛を愛し続けると決心したのだから。私は彼女を愛している。彼女が妊娠していれば私は子供を育てる。何を当たり前のことを言っているんだと、私自身思う。しかし、その決心をここに書くことに何か意味があるような気がする。私はすべてのことに意味を持たないし意味は人の思考力を硬直化させユーモアの精神を奪わせる地獄への扉のようにしか思えない。どうして人々はユーモアの精神を忘れて子供のように退行して金をもらってはくだらぬことに投資し個人のすることだからいいのだと、胸を張って言い切るのだろうか。私は他人の趣味に大いに口を出すのも自らの趣味に絶対的に自信があるからに決まっている。またそうするのも、好き勝手しているからいいだろうと考えている連中などいなくて、大方相手を見下げているのだから。これは偏見ではないのだ。偏見というのはありもしない相手の感情を私がでっち上げることだ。これを私は糧に相手に対して挑みかかっていくのだから私のとってエネルギーであることに変わりない。私はいかなる精神を持って今後生きていくのかを自問自答するほどの気力も体力もないのが今の状況である。いかに生くるべきか、そう考えるとき私は人生が遠くにあるように考えられる。人生について忘れたとき人生は私のところにやってくる。相手が好きであればあるほどに相手は去っていく。これほどわかりやすい人間の素晴らしい関係について、集団と群衆で友人関係を偽装するある種の群れは、彼らの噓いつわりを飯を食べる儀式やらバーベキューにて確認するんだろう。焼肉が焦げ、誰が焦がしたのか犯人探しが始まり、俺じゃないと否定しながら戯れる。何ともつまらない世界がそこに展開されるのだ。ただ信じられるのは太陽のみだ。太陽と肉と炎。それだけが私を救う。私のとって絶対である。私は人間関係を信じない。人を信用しない。それは私を信用しないでくれという意味と同じことである。なぜならば、私は人から信用されることである種の義務を背負うことになる。私の背中にからうものは私が決める。以上。さらば、青春!さらば、人生!人生などちっとも美しくなければ、人生の良さを説く連中の性根は腐ってる。人生は、君らに教え込まれなくても輝いていたというのに!