アウトプット

相手の視点に立ってみよう

外に出れば声の大きなやつがわめいている

 うるさい世の中!広告は、商品名を繰り返す。選挙では、政治家は拡声器を使って声をばらまく。名前だけでも、覚えて。金をくれればいくらでも覚えてやるのに。金権政治。やればいい。そして、裏切ればいい。政治家のカネがなくなって、政治なんてできやしない。ざまみろ、と言いたい。でも、いい人ぶりたいので、かわいそうにと慰めてやりたい。国民の生活が第一と考えるならば、決して戦争しないでほしい。世界に紛争地帯はあるだろう。人道支援だって、命がけだ。いつ殺されるかわからない。そんなことよりも、いつ打ってくるのか知らないミサイルだ。東京にミサイルが落ちて、国民の生活がダメになるようじゃ、この国の未来は終わっている。東京への執着がなくなって、良かったりするのではないだろうか。何が起ころうとも身構えているわけではない。いつだって、首をつっているんだ。下に見えるのは、灰色のコンクリートと、初めて人を上から見た視線だ。暗い文章を書いてすまない。僕は決して自分を偽りたくない。もちろん、偽りこそ人生だと声を大きくして言いたいのも本当だ。真実を追い求めようとしなければ、良かったのだと思うのだ。この世が嘘であるならば、騙されたふりして生きている方がマシだった。その方が、楽しかったに違いないのだ。それに気づくのが遅れたのか、それとも、そういった人生に魅力を感じなかったのかはちっともわからない。どちらにせよ、ぼくは、自分について書くのをやめようとおもう。なぜならば、僕は自分について書くほど指が足りていないのだ。

空に浮かんだ魚

 見上げたら魚が浮かんでいた。魚は光って、太陽に燃やされている。炎だ。とてつもなく、真っ黒焦げになるだろう。それにしても、なぜ、地面に落ちないのか。その瞬間魚は、地面に落ちた。海からも遠い、魚屋もないこの駅前の通りに魚が落ちている。いずれ、野良猫が草むらに持っていくだろう。

カフェイン中毒者

 彼はいつもコーヒーを飲んでいた。歯が黄色く、息も臭かったが、目は輝いていた。どこの街灯よりも明るかったので、歩道を歩いている役に立った。青空のもとでは、茶色い瞳が青い空を眺めていた。僕はいつもカフェイン男と歩いた。たまに、ホモだと思われたかもしれないが、僕が好意を寄せているのは確かだった。でも、誰にもからかわれることはなかった。人づてに聞いたくらいだ。つまり、誰も、僕たちに興味はなかったのだ。

 ある日、カフェイン男は消息を絶った。連絡しても、家に行っても出なかった。どうしたのかさっぱりわからない。もう死んでしまったわけでない。メールをすれば、ウィッシュとわけのわからないメッセージが送られてくる。大好きな女の子から心配されることもなかったのだから、カフェイン男はたぶん相当に参っていたんだろう。一つ思い当たる理由は、カフェインを摂取できない時間帯があったことだろう。彼は、時間が欲しかったのではなく、自由でいたかったのだ。

 僕のカフェイン男の記憶はここまで。きっと、みんなカフェイン男がすごくきになると思う。僕が全く興味がないけれど、次回みんながもっとカフェイン男について知りたいなんて言うなら、もうすこしだけ、このどうしようもない自由人、カフェイン男についてでっち上げて喋りたいと思う。

 

裸の女

 裸の女が突っ立っていました。ここは、高速道路の横を走る狭い道路です。山奥にあるため、この場所に来るような人間は林業にでも携わっている人間でしょう。そこに、陰毛を野放しに生やした女が、立っていました。眼光は鋭く、こちらが近づくのをためらわれましたが、私は車に乗っていたのでなんとも怖い感じを受けることはありませんでした。いざ、女が隠したナイフを持って襲いかかってきたとしても、鍵を自動ロックにしたので大丈夫だと一安心したのですが、考えれば裸の女にナイフを隠す場所もありません。あるとしても、とても痛くて耐えきれないでしょう。それとも、女はマジシャンで喉の奥に刀を飲み込んで隠しているかもしれません。

 女はちっとも欲情させませんでした。ただ、このあたりは鬱蒼とした山が広がります。高速道路の沿線ですから、女は太陽に当たった小麦色の肌を私の網膜に映し出しているのです。森に隠れて女を襲うこともできるでしょう。しかし、濡れてもいない女を濡れさせようとするほどの欲情も起こさせないこの女になんと声をかければいいのか私にはわかりません。もしかすれば、欲情が起きるのを待っていたのかもしれません。

 次第に、女はこちらに歩いてきて車の横に来て運転席の窓をノックしました。私はドアを開け、彼女に声をかけました。

「寒いですね。中に入りますか」

女は、こくんと、はっきり頷き鋭い眼光も無くなりました。助手席に回って女がドアを開けようとしましたが、ロックがかかっていたので開けられませんでした。ちょっと待ってと、女に言って僕はドアのロックを開け女が助手席に座りました。女の体を僕はろくすっぽまともにみられません。欲情していないというのを彼女にわからせるためです。それは、女のよくする手段である、気のありそうな男に嫌いだというためにみせる決して男に読み取られることのないメッセージと同じです。男は、すべての女のメッセージを好きなように読みます。

「服着てないから、びっくりしたでしょ」

 急に笑って、女は私に話しかけました。

「いえ。大丈夫です」

 なんの意見も言葉に言えない僕ですから、こう返すのが精一杯で、確かに、一番素直な気持ちでもありました。欲情もしていないし、まして、女が明るい舗装された林道に立っていても不思議はないと思えるくらい、私のふつうの反応は死んでいるのです。

「ホテルいこっか」

 願ったり叶ったりです。何もここで紳士ぶることはない。女の方から誘っているのだから、いいだろうと思うのです。しかし、女は男から誘われたいもの。女は、男から女として見られたい。なぜ、そうなのでしょう。女の承認欲求がなければ、もっと男と女は平和に生きられたのではないでしょうか。

「どこか知っている場所ありますか?」

 私は、ただドライブがしたかった。でも、助手席に裸の女を乗せて街を走流のかと考えると、あまりいい気がしない。何か、変なやつだと思われる。実際に、変な奴だ。変な奴にはなりたくない。でも、自由な感じがしました。裸の女を助手席に乗せて新宿を走る。しかし、考えただけで飽きました。僕の悪い癖は、考えて行動をやめることです。考えるとは、ただ行動したくないだけの言い訳でもあり、行動の拒否でもあります。考え方にもよるのでしょう。

「わたし、あなたとエッチしたいの。濃厚な。でも、あなたって一回いったらもうだめそうね。しおれちゃいそう。それでもいいわ。わたしのからだをみて、いっぱいきもちよくなってほしいの。ねえ、わたしを抱いて。抱いてくれたらお金あげるわ。病気なんてもってないから安心して、わたしをだいて。抱いてくれたら、私なんだってするわ。なんだってするから、抱いてよ。私を抱かないの?どうして、あなたの顔なんだか嫌そうよ。男の人って、女の体を見ると気持ちよくなるんでしょ?興奮するんでしょ?そうじゃなかったら、男じゃないわよ!どいつもこいつも、わたしのことを女だとおもっていないんでしょ!いったいどうしろってのよ。わたしは性別は女よ、肉体も、医学も女として処理されているのに、なんだかちがうのよ。わたし、女っぽくないって言われるのよ。たぶん、アメリカに行けばいいんだわ。そしたら、すぐに股を開いて男が入れてくれる。女だって、すぐに思える。自分が、すぐに承認されるんだわ。アメリカって素敵な。それに比べて、この国何よ。フェチだとか、パンチらに萌えるとか。ほんと不寛容な社会よね」

「そうですね、女の子が絵になってそれがエロくて漫画になりコンビニに売ってあってもぜんぜん規制されませんからね。絵ならいいんでしょうね。絵なら何をしてもいいっていうことで、それは、何を言ってもいいというのと同じでしょう。でも、言葉が空想になって現実を全く変える力がありません。この国が変わるのは、雰囲気で変わります。ひとりひとりの存在意義も、周囲からの承認で変わります。私がどう思うのかではないのです、周りからどう思われるのかが私が思うことなのです。ですから、責任はありません。自由です、と言いたいとことですが、責任さえ問うことができないのです。悪いのは制度だ、教育だとなります。アメリカはどうか知りません。ただ、彼らは文化的に自己主張が大事だと言います。しかし、その自己主張も説得力を持たせるためには、文化的背景と世間の雰囲気が必須でしょう。彼らは本当に、自己を主張しているのでしょうか」

「そうね。ただ、自分の主張を重んじられる雰囲気はあると思うの。この国は違うでしょ。周囲の、瞬間的な多数決で主張の是非が問われる。そこに、違う主張が来るわけではない。つまり、コミュニケーションがオートメーション化されているの。私か裸で路上に立っていれば、この国では気が狂った女なの、でも、アメリカではやりたがっている欲情した女なのよ。私はアメリカがいいのよ」

女は、泣き出した。彼女はこの国を恨んでいるのか、それとも、この国に合わせられなかったのを悔やんでいるのか。そのために、ためておいた涙が押し流されてしまったのか。僕は彼女がとても可愛く思えた。でも、やっぱりやりまんだと思った。それでも、この裸の女を愛せるならば、本当の愛だと思えが。好きになるのは、簡単だ、嫌いなところを見なければいい。でも、嫌いなところも好きになるのなんだろう。お笑いだろうか、愛だろうか、それも、好きだという嘘だろうか。相手から好きになられたら、そのままの自分でいようと思ってしまう。変われば、相手は僕のことを嫌いになるという都合の良い解釈をして、自分の悪いところも好きにならなくちゃと相手に負担をさせる。

「あなたって、変な人ね。裸の女を助手席に座らせておしゃべりするなんて。他の男たちは、私にたくさんいやらしいことしてしまいには逃げるように帰って行ったわ。男はそんな奴ばかりだって、私思いたくて、だから、裸なの」

 女もまた自らの正しさを証明したくて不幸に飛び込んだのだ。それは科学的だ。科学では証明されれば、それが正しいとなる。

「あなたって、優しいのね」

 僕は屈辱の中にいる。優しい男は女に嫌われる。最初はね。僕は女を外に連れ出し、地面に突き飛ばした。そんなことをしたくなかったけれど。女はそれを望んでいるように思った。そして、僕のいきり立った突起を女の湿地に入れた。ローションを塗りたくったように女のあそこは濡れていた。

 

なぜ、私の文章はちっとも楽しくないのかについて少しだけ考えてみた。ひっかかる言葉があるので、少し考えてみた。少し、ってなんだ。量にできるのか。考えることは量なのか?そうなのか?そういうことが気になり始めたとき私は、言葉がなんとも適当に世の中で使われていることを知る。世の中というのは所詮これを書いている私であるし、その言い回しを平然と受け入れている世の中である。世の中というのは本当に、なんとも言えない、苦しみも喜びも生じさせ、ときには人を善人にし、ときには悪人にする。世の中というのは本当に面白いもので、自分という人間がすぐに変わってしまう場所でもある。自分が変われば、自分から逃げられるので、最高の逃避場所となる。一方で、自分と向き合っていうないということも言えるが、それに関しては、あまりにも他者が興味のない話であるから・・・という理由で、私が書かないのは、何も思いつかないからである。無理矢理に文章をひねり出そうと、トイレにこもって踏ん張っても結局でないのだから、諦めて、出てもいないのに尻だけ拭いて外を出るようなものだ。つまり、私たちは頭がおかしいのであると今何も考えずにものを言っているけれども、この癖はいったいどこから来たのであろうか。私は、というとき、私でない誰かが私について語っていることを、つまり、それは誰でもないのである。誰だと名指しすることができないけれども、確実にそれはあるのであって、それを世間だとか、秩序だとか宗教的なことがあら、つまり、神の視点からいうのである。神でもないのに、自分についてとやかく考えるのはおかしいのであるが、人間は平気でそういうことをするので、どうにもならない。死んだらどこに行くのだろうかと、悩むこともない。死んだ後のほうが楽だというのも、変だ。死んだこともないのに。ただ、今ある不安という、想像の産物よりも、死んだ後の楽だという想像の産物のほうが、よっぽど今より楽だとおいう確信があるからなのだろう。ほんとうに、人間は妄想でいくらでも天才になれ、モテることも、ヤリチンになることもできるが、妄想で、地獄を見て、地震はなくなり、犬のような思考をすることもある。私は人間について何か論じようという気持ちが全く起きないのも、私は一人でものを書いているからであろう。私のしていることを変だと思わないでほしい。それを変だという人間は、自分の好きなことがないから、それに嫉妬して私に、君のやっていることは変だと言ってくるのだ。それだけの話なのだから、付き合ってやるのはこっちの方で、そっちの言葉をきいてやるのもこっちの責任なのだ。正直、この世の中はいけ好かない。しかし、生きなくちゃいけないから服従するっていうんじゃもったいない。私は、世の中をあまりにも憎みすぎているのか、憎しみに過不足はあるのか。実にくだらないと言いたいが、それは本心であるのか。だから、ナーガールジュナを読むし、維摩を読む。それだけの話なのだと、常套文句で切り抜けようとしても、どうにもならない。いたって簡単で、世界について、私は何も知らないし、世界がわかった風を装っている世の中の、ある意味、社会的に何一つ逸脱したことのない、つまり、出たことのない人間たちは、小説なりテレビドラマなりの非日常から自分の生活を見つめ、安心したり、自らの境遇を忘却しようと必死なのだ。こっちがわに来れない人たちなのだ。どうしても、私は自分の生きたことから逃れるの難しいと感じている。それを否定するのは、自己否定である。しかい、自己否定に神は宿る。否、すべての否定に神は宿るのである。ブッタを神と呼んでいいものか知らないが、そんなことはどうでもいい。実相にではなく、動きに宿るのである。と、なんの確信もなく書いている。私の今の悩みは未来の私からすれば単なる時間つぶしである。暇だね、と言われるとき屈辱に思う。悩みを暇だと考えるとはどういうつもりだ。もし、そこで死ねば君は弱いねという。そういう人間の余裕のなさを、私は相手に暴露させてしまう。それも、相手の、そんな下らない話はやめろよと言いたげな顔に。だから、私は人に悩みを相談もしなければ、悩みの相談は人を不快な思いにさせ、また、悩みを相手に転移させてしまう恐れがあるのでしない。そして、そもそも、悩みすら本当はないようなものなのだ。例えば、就職できないと悩んだ人間が就職しても、悩みは生まれてくるだろう。悩みを解決しても悩みは噴出する。金があっても、悩みはあるし、なくて、悩みはある。つまり、悩みとはなんだという話だ。例えば、動機だ。殺人犯は、己の動機をわかっちゃもらえないということによって、社会を強く惹き付ける。どうして、殺したのか。どうして、あんなおかしなことをしてしまったのだ。つまり、事件を追って、貧困な家庭が原因だと言っても、まともに育った貧困家庭もあるはずである。自分たちが貧しいと認識して、それを世の中のせいにし、そのために苦しめられているとすれば、あまりにも世の中が、金だけの交流で成り立っているのがわかる。彼らは、人々と接触することを避けられ、小金持ちは、変な趣味を持ち出す。ある意味で、この世の中は苦しみばかりがある。金を得るのも苦しいだろうし、金持ちも苦しい。金があれば、安定を求め将来を不安にする、金がなければ、将来の安定など考えないで今さえ楽しければまだいい方で、将来が崩れて仕舞えばいいと考える。つまりは、どっちも同じであるし。どっちもないのだ。ある人がないかを言いたそう出る、語りたいそうだ。語るだけの相手がいるのは素晴らしいと思う。誰かの話を聞くのは、本当に苦痛でしかないのだ。話をしている人間は、話を聞いている人間の気持ちに従うだろうし。話を聞いている人間は、話をしている人間をバカであるか、もしくは、社会的身分だけを感じ取ってまともに聞いているかのどちらかである。しかし、私の文章はきっとどうでもよく誰にも読まれずにネットの山の中に捨てられてしまうのであろう。それも結構。何が起きても特に私は何もしない。

またここにきてしまった。書くことをなんでも書けばいいという話ではないのだけれども、書いたって人に伝わらないのだから何も書いていないのと同じなのでここに色々と書きたいのだけれども、もはや、言葉で解決できるような問題じゃなくなっているような気もしているのだ。例えば、言葉であれこれと指導するけれども、それは全く意味がなくて、いや、全く意味がないわけではなくて、瞬間的な意味しか持たないわけで、言葉は永遠と残り続けるのであるならば、どうしても、私は、その執着心を捨てなくてはどうにもいかないような気がしているのだけれども、言葉についてどう思うにしろ、それが心に残らずに溶けていくような感覚にあまり慣れていないのだ。人は言葉ではあれこれというけれども、自分の肉体を動かすことは一切しないでいられると考えている。例えば、しゃべるのが一番のいい具体例になると思われるのだが、自分が喋るのが一番大切なことなんだと思うのだ。つまり、相手に聞いてもらえるような話ができればそれで十分なのであるけれども、読書は、耳から音を直接聞いて文字を読むわけではないので、感覚的に視覚に頼り、しかも、漢字という象形文字を頼りにしているから、絵画をずっと眺めているような感覚なのである。それにしても、私は全く興味がないという時、絶対に興味があると思うのだ。まず、興味がないのであるならば、頭からすっかりとなくなるはずだ。例えば、私は刺繍に興味がないし服にも興味がない。といいながら、本当に興味があるのかないのかわからないのだ。結局、余った時間を何に使うのかという選択の手段があるだけで、それに何が好きであるのか嫌いであるのかを基準にしているに過ぎないということで、好き嫌いは結局は合理主義に基づく偏見を形成するに至るのであるが、私には、一つ言えるのは、全く言いたいことがないのだ。例えば、維摩は沈黙でもって全てを語ったとされるが、私は、そう思う。沈黙は、全てを語りうるような気がする。そういう気がしてならない。沈黙は、言葉からの自由かもしれない。また、言葉を弄び人を動かすようなこともできない。言葉は本当に、皆さん気をつけて使ったほうがいいと思います。思ったことを全て言えるようになれば楽でしょうけれども、自分が考えていることがあまりにもヤバイと思える時があって、それ以外について何も考えられないような時に、いったい、自分はなぜ言葉を使って何を主張しているのかわからなくなったり、主張することが単純になりすぎて、いつも同じことばっかり言っているような状況に陥るわけです。ニュースを見れば今日も人が死んでいますが、ニュースさえなければ人は死んでいないのです。事故もなければ、明日の天気もありません。ニュースはフェイクだとアメリカのドナルドトランプ大統領が言いましたが、確かに、ニュースは根本的にはフェイクです。当事者にしか本当のことがわからない。当事者が感じているのが本当のことだから、それを他人が聞いて放送して、また他人がそれを聞くのだから相当に偏っているし、間違って胃もいるだろうと思われるのです。ニュースの根本にあるのは、いったいなんでしょうか。ニュースなど必要でしょうか。確かに、必要でしょう。国家的に優先する順位はまず、殺人を犯す人間を特定すること、そして、その動機について考察すること。あとは、アメリカの大統領が何を考えているのか、そして、北朝鮮のミサイルにスリリングな快感に酔いしれる感覚を思うだけでありましょう。北朝鮮のミサイルを見て思うのは、ミサイルを好き勝手に打つことのできる自由はあるけれども、国民はやんでご飯もろくに食べられないんだから、日本というこの国に生まれてよかった、ミサイルを撃つ自由なんて全く不要であり、かつ、ご飯が食べられるのなら最高だという話になるわけでしょう。根本に、ニュースは、自画自賛と病人の感覚があるだけです。例えば、個人レベルで物事みれば人はなんと自由なのでしょう。何を考えていても感じていても沈黙していられる。自分の考えていることが世にそぐわない場合に賛同者を求めるという果てしないことをしなくてもいい。歩いて歩いて、結局は世の中の考え方というのが本当に考えているということになるのです。決して自分の考えを主張するのが大人でもなければ子供でもないし、人間でもありません。主張というのは、いったい何をもって胃主張というのかさえ分かりません。こうして、私が書いているのもまた主張であろうという話です。結局は、何もわからない。ニュースが何を言いたいのかはっきりさせればいい、起こったことを事実だけを書くのは決してできるようなことではないし、そこには事実に近いからこそ説得力あるだろうけれども、人々が納得するだけであって、そこに自由はないわけです。もうどこから話をし始めたのか、全くわからないので、話が直線的にすっきり終わりはしないので、とても、心配なのですが、私は何を言いたいのか、アメリカでは、何か言いたいことがある人間がいいとされるけれども、日本ではな何も言わない人間が重宝されるんです。だから、私はアメリカに行ってそういう空気を吸いたいと強く思うわけです。日本人は、日本人とひとくくりにされてなんともまあ悲しいではありませんか。ある人がゴミを拾えば、日本人全員がゴミを拾ったということになる。世界でスポーツ選手が活躍すれば、自分が活躍したように思う。同じ星座の人が成功していれば、自分が成功したように感じる。結局は、自分と他人を混同しているわけです。それを明確に区別するのは非常に難しいのではないでしょうか。私には相手を区別できているようで、できていない、相手の権利ないし気持ちを理解せずに愚痴を言い、そして、行動する人が多いのを見ましたが、それを解決しようとは全く思わないのです。そういう話し合いをして、解決するために金を巻き上げる人間もいますけれども、それは本当にかわいそうなことだと思います。何か楽しいことをすればいいと思いますけれども、そればかりが人生だろうか、それは貧しい人生じゃなかろうかと、哲学の側から反論が来ます。ソクラテスは何かを主張した人でしょうか。彼は、主張に苦しめられる人間たちに、解毒剤のようなものを伝授したのではないでしょうか。つまり、自分と対話してそこから自分の対話をよく聞いて、理解するのが一番の自由への道ではないかとソクラテスは考えたのではないでしょうか。それは、仏教の維摩に関してもそうです、彼は、病気のふりをして菩薩を集め、彼らの質問を片っ端から反論して行ったのです。ある主張をし続けることもまた不自由でありますから、政治家は非常に不自由な存在です。彼らは、好きなことが言えないのです。かわいそうに。ところで今は論理が大変よく流行っておりますね。論理的に考えることができない人間が論理についてとやかくいうものです。論理的であれば、すべての人が納得すると考えているのですから。すべての人が納得するような意見がまともな意見なはずがありません、また意見それ自体が必要のないものです。疑問の形で提出され、自己を語らないのであるのならば、いったいなんのためにあるのでしょうか、意見というのは、全く自分の話を聞いてくれという甘えでしかないではありませんか。従って、政治家はかわいそうな存在で常に自分の話を聞いてくれる人を求め歩いて、聞いてくれる人を集めるのに、嘘をつくのか、それとも、自分の言いたいことを聞いてくれる人を探しに行くのかの代替二つに分かれるのではないでしょうか。つまり、政治家を解剖してみればいいのです。ついでに、医者も解剖してみましょう、痛くなったら、死んじゃえばいいと思いませんか、働いて税金を納め国民の生活をみんなで全体でよくしていくために、心臓を動かしているのす、彼らが救うのは人間の命ではなくて、人間が大事と思っている価値観に違いありません。私のように、人が死んでも生きてもどうでもいいと考える人間にとって、医者は不当なのです。金を大量にもらい、命を救って、それで、賞賛されるから、医者は素晴らしいのでしょうけれども、痛みを取り除いただけのご満悦がおに飽き飽きしてくるのも人間です。誰かにいいことをされたら、仕返しをしなくちゃならない。肩もみしても許してくれないから、金をやる。それだけの話です。自分の体を機械みたいに、結局はエンジニアと変わりないのかもしれません。変わりなくてもいいのですが。ある価値観を人が受け入れるのは非常に難しい。その別の価値観でその人の精神は、なんとか保っているからです。人格を保つのは非常に難しいものがあります。私は人格なんてなくなっても構わないと思っていますけれども、しかし、急に冷たくされると悲しくなり死んでしまいと思います。その時に、なぜ医者がいるのかと考えます。生きるのも死ぬのも、自由だと考えれば、なぜ、楽に死ねる方法というのを考えないのでしょうか。それは、結局は、自分たちの価値観からくるものよりも、他人の価値観、そして、他人もその価値観を形成して、出所不明の価値観に左右されているからです。私が嫌だと思うのは、すべての免許制度です。あらゆることを免許制にして、同じように教育したり、または、差別をする。それが何を意味するのか私にはわかりません。制度を批判しても時間の無駄でありますし、制度は私がここで書いても変わりません。だれかに受け取ってほしい私の主張なんてものもありません。ただ、自分がそういうしがらみだとか他人からの考えを捨ててしまって自分と戯れ、自分の気持ちの赴く場所に、人目を気にせずに行けるのならば楽しいのではないでしょうか。それこそ、自分が、本当に自分が現れる場所なのではないでしょうか。不機嫌ん顔してもいいんです、そういう日もあるでしょう。嫌いな人間がいてもいいんです。そういう時もあります。そういう人もいます。ただ、相手を嫌いだと思うことが嫌いだという人もいるでしょう。どうぞ、嫌いな人と付き合ってください。何も悪いことはありません。何かを変えようとすると起動して今までの自分の否定から入るのでしょうか。私が否定するのは主張であったり、もう年であったり想像であったり政治であったりするのですが、否定する私を否定してしまえば、私は滅してしまいます。どこにいったのか、辺りを見渡せば、私は自由の空気を吸って街を歩くのです。落ちているタバコにマナーの悪さを見ます。歩くサラリーマンに、人生は非常につらいものだという顔して、もしくは、図に乗って自分はかっこいいと思っている人間たちに出くわします。自分が、自分が、自分が隣っているのが現代です。私は現代がどうしても好きになれません。彼らは、楽しければいいと言います。じゃ、何が楽しいのかというと女であったりアニメであったり、ダンスであったり色々とあるわけです。楽しいのは人によって違うわけです。何が楽しいのか、愚痴を言うのも楽しいのかもしれません。つまり、反応です。私が愚痴を聞けば、こいつはなんと人に不快を振りまいて嫌な奴だと思います。それならば、どこかへ私がいけばいい話です。しかし、愚痴はどこへいってもついてきます。あるがままを受け入れるよりも、相手の愚痴を聞いている方が自分が話さなくて済むと考えているのです。私の考えは人に受け入れられるものじゃないんだという心境でいるのです。なぜならば、世の人たちがひじょうに同じような考えをしているのだというのに気づくからです。私の目は死んでいるように見えます。半分愛ためです。二重です。それだけで、相手になんらかの妄想を吹き込むのには十分であると言わざるおえません。私は唯一信じたいと思うのは、偉そうな人間は非常に貧しいということ、その人間は現実逃避をして、現実から目をそらして、自分の周りに気に入った人間ばかり集めているのです。助け合おうという精神がまずありません。大学生をみてください、高校性をみてください、中学生、小学生、友達がいます。友達というのは、小さな集団でありますが、友達以外の集団にはひどく冷酷です。この国は特にそうです。新しい人を受け入れる土壌が全くありません。この国にあるのは秩序と言われる、牢獄です。私たちの心の中にすでに秩序があります。それで充分じゃありませんか。例えば、髪を切らなくてはならない。それはなぜかというと、よく分からない。皆そうしているからそうしなくちゃならない。旅行に行かなければならない。なんと面倒なことでしょう。ドラえもんのポケットにあった衛星写真で旅行するのは今、グーグルマップで実現できました。それで楽しいと思えるでしょうか。やはりその土地の空気を、雰囲気を楽しむのでしょう。外国人が日本に来たらさぞ面白いでしょうが、私にとってはなんとも無意識の中にあって、さらに、長く住んでいるから、私がどう見られて不自由を感じているのかというところまで明らかにしてくれます。つまり、住むほどにいいところも嫌なところも見てきているわけです。それをどこまで感じるのかは自由です。私は自由が好きです。誰からも咎められることなく、笑顔で私の人生を見つめてほしい。誰かを追求して、悪口を言って相手を貶め自分の価値を上げるような真似をするのは大嫌いです。私は究極的に人があまり好きではありません。そんな私は、人間とは、人間とは、と言いまくる場合、自分が好きな人間は少なからずいるようです。しかし、そういうった人間の考えていることもわかるのです。腹の中が透けて見えるわですから、私は自分の好きな人間も嫌いになってしまいます。誰も好きになれません。誰かを好きにならなくてはいけないのでしょうか。そして、誰かのために尽くさなくちゃならないのでしょうか。自分の精神の安定のために愛を求めなくちゃいけないのでしょうか。アプローチの仕方をかえればいいんじゃないでしょうか。私はそう思うのですが、それは主張でしょうか。主張であるならば、すぐに反論しなくちゃならないのが議論でしょうか、議論、議論というけれども、話し合いに変わりありません。お茶を飲みながら気軽に決めればいいんです。それでは、他人からの承認なしにどうすれば、自分は正当化されるのでしょうか。偏見を持つことではないでしょうか。偏見とヘイトスピーチは違います。偏見とは、例えば、荷物を持った老人を見て手伝ってやろうかと思うこともまた偏見ではないでしょうか。その人は、荷物を他人に触られたくないともいます。としたら、そう考えているのは私で、私はそうして欲しくないのでしょう。つまり、自分の話を聞いてくれる人を失ってから、私はひどく相手を偏見の目で見て、自分の話を偏見に置き換えて、ひとりしゃべっているのでありますから、誰からも耳を傾けられないのも重々承知であるのも確かなのです。私という人間は生きる価値がありません。人間失格を書いた、太宰治は、彼自身、どうしても、生きる理由を見つけられなかったのでしょう。生きなくてもいいのです。楽しいと思ったことがないのでしょうあ。恵まれた子供は大変です。楽しいと思うことが少ないからです。それで、没頭することなく生きていくのですから、周りから見たら、おっとりしていてマイペースといったところでしょう。他人からの承認なしに、生きているような人間は自分の中にたくさんの人がいる人間であると思われます。現代は、あまりに承認欲求を必要としすぎているようにも思われます。何をしようにも人の目が気になる。人の許しが必要となる、自分を下に見ているのです。自分のしていることに自信がないのです。そして、自分の価値観を信じられないでいるのです。でも、それは自分の価値観という偏見を捨て去り、無の境地に達して何をしても楽しいという状況を作れないわけもありません。非常に難しいのですが、私は、無心であれ、なんであれ、何かに没頭しているとき人間は充実した生活を送っているように思われるものだと思います。しかし、人生に充実感は必要でしょうか。私は必要であるという意見も、そうでないという意見も両方持っています。矛盾しながらも、一つである。決して二つなるものはありません。例えば、どこへ行こうにも、どこへ行かないにしろ、同じことです。世界を旅行するのも、哲学書に没頭するのも変わりありません。ですから、世界を旅行した人はいたって私たちと同じような感覚です。ただ、思い出の形が違うだけです。それは、いろんな形の野菜があるのと変わりありません。何もないというのは、それ自体おかしな話で、なにもないというのさえないのです。つまり、すべてあるということでしょうか。あるのならば、それを感じればいいのに、それをしないでいる。なんとくだらない文章を延々と書いているのでしょう。私は樋口一葉の文章が大好きですから、もっと読みたいと思うのですが、彼女はもう死んでしまったので読むことができない。なんと、悲しいのでしょう。私は泣いたか?なくわけがありません。ただ、残念だと思うだけです。それもほんの少しです。それでは、それほどでしか好きでなかったのかという話になります。そうです、多分そうなのです。ああ、酒の飲み過ぎは腎臓や肝臓に悪いのをわかっているのにどうしても飲んでしまうのです。頭の中のモヤモヤが解決されるためには何をするべきなのかもうわかっているという考えが大嫌いです。例えば、人参ではなくて、ジャガイモでもいいわけです。こだわるのが一番良くないという。

言葉について何かを書こうと思っているのだけれど、なんにも思い浮かばないので、どうすればいいのか、何をすればいいのか、さっぱりわらかない感じの私は、自分の体たらくを見つめて、どうしてこうなったのかと後悔しても始まらないから考えないようにすればいいのだと、考えているのだが、そう長くも続かないのが私の精神の力なのだろうか、すぐに本を読んだり、動画を見たり、つまりは、オナニーして忘れようと努め励んでいるのであるが、どうしてもうまくいかないような気がするので、もう、とうの昔に困り果て、維摩経を読んでは、何もこのようにないのであって、そして、そう考えず自分すらもないという、虚空を思い描くのだが、虚空もまたないのであって、あるものといえば、限定することになるのだが、あるものさえないのだ。解説も無意味で、あるのは否定の精神。全てを否定するその姿勢に、宿るものであり、バッチがあれば何をしても太っても、その地位を貪るわけにはいかない、つまり、ある社会的地位なるものの建設は実に容易に人生を渡っていく上で、簡単なる現実を創り出しそれ以外の現実は役に立たぬと決めかかって狭い場所の満たされた空間に閉じ込められ、そのうち窒息してしまうのではないかと思わないでもないのだが、本人たちは、いたって普通に毎日をくらいしているように見えるが、そうではなく、常に自分を脅かすものたちの存在には敏感で、変わったものたちを避けたり、ひどく心が怯えているので、口調の強い言い方で相手を威嚇し怒りをむき出しにする、まるで、野犬なのだ。どこにもそういう人間がいるのは当たり前で、それをなんともおもわず、こびへつらいもせず、存在もしないかのように扱うのが仏教のやり方と言ってもそれを仏教のたくさんの行いの中の、いったい何であるのかちっともわからないのである。おそらくは、現代人と言われる人間たちはものを買うために働いているわけであるが、そのものがもたらす効用を全く知らないでいるのであるならば、結局は、ゴミを買っているのとなんら変わりなく、コンセントのない縄文時代に、スマホを買って喜んでいるようなものじゃないかと、ぼやいてみても、それは愚痴にしかならず、愚痴を言ってしまうのは私が何も知らないからであるとすれば、何かを知ろうと躍起になるのもまた似合わないので結局は、私が今考えていることのほかに何を考えようとするのも難しく特に私の状態を他人に言葉で伝えるよりも、私の独り言を聞いて異相手が私をどう判断するかにかかっているのがより私が自らを欺き相手をも欺くために練られた言葉を垂れ流すよりもずっといい方法であるのはわかっているといううぬぼれになんの価値もあるわけじゃないけれど、私の嘆きなど人が聴いて楽しいものではなく人は、私の嘆きを聞くために生きているわけでもなく、ただ自分の快不快のために生きているとしたら、この世界に満ちている諸々の儀式は人をつなぎとめる幻想の中で楽しく人生を送ろうとするつまらない嘘で充満しているのではないかと、言ってみても誰も私の話など聞きはしないのだから黙っているのが一番楽なのであるかといえばそうでもなくて、自分を知るためにはいったい自分なるものと対話しなくてはならず、よく人は、私はこうこういう人間でと自己紹介するがそれは不可能であると思わないだろうか。知らない人にどういう風雨に演じて見せているのか知らないが、私の前にいるあなたは不機嫌で、どちらかというと人から好かれるタイプには見られないという時、私は見ず知らずの第三者を意識している、そしてそれが誰なのかはきっと誰も言うことができない。これはいったいどういう事態であろうか、私は一人であるはずなのに、誰かのことを意識して生きている、それが明確に誰かのためである時人間は安定するのであろうが、私のように親でも子でもない場合は非常に不安定な立場に置かれることになるのだ、つまり、相手を不安にしたいなら裏切ればいいという話ではないだろうか。私はすべての人の鏡であるし、すべての人は鏡である。私のイメージしている私は、私一人では決して見ることができないのであるし、自分が可愛いと思うのなら、機会さえ人にしちゃって、プリクラの写真を撮るのである。つまりは、あなたが愛しているものがあなただと思えばいいのであろうし、自分は本当に緊張するのも嫌だから、何か嫌なことがあればすぐそこからいなくなるのだけれどそれも自分が作った妄想だというが、その妄想さえなくなってしまえば、私は自由に人を殺めてしまう可能性もあるのであってつまりは、馬鹿ほど社会に取り込まれてうまく生きている矛盾に陥るのであるけれども、私はいったい何を言っているのだろうと思わないわけではないが、私は書きたいことしか書けないのであって、不二の考えをどう推し進めていけばより自在に世の中ないし私の心が活発になるのかと思案しているのだが、目的は、思案どうりになるわけもなくいつも計画倒れであるが、計画よりもずっと良い果実を実らせている変な状況であるのは間違いないのであろう。感情さえ教育されていれば私もきっと自分の感情を予測して偽りの涙を流し、人に共感され、うつむいてベロ出して人を馬鹿にしていたに違いないのであるし、今でも人を馬鹿にするのが好きなところもあるのであるが、そこに憎しみがあるかといえば、あまりないのだからたちは悪くないのだと言ってみたところで、相手からしてみれば、私がいったいどういう心持ちであるのかよりも、私の態度の方が問題で、相手は相手で自分自身と格闘し、自分という狭いところにうずくまって引きこもっているのだからなんとも言えない。家に引きこもるよりも、精神に引きこもっている人間のなんと多いことかと思うのであるが、現代の医者というのは、根本において技術屋で、死について考える必要はないようだ。どうしてだろうか、と考える時、私はその質問に飽き飽きしている。同じことを繰り返しているのだが、人生について考える時なんと複雑であるのかと考えるようになった、とにもかくにも、何もかもが矛盾しているがともに暮らしているのだから、秩序なるものも、矛盾を抱えないわけにはいかない。法律家は法律で生きていけると固く信じているし、経済学者は既存のモデルが生み出す利益を拡大しようと、適当に数字を並べ立てアイディアを模索している。科学者のみが、利益と数字を一緒に考えられるけれども、一体全体、人生について考えもしない。なんと素晴らしい。

 思ってもいないことをいうのは、よくない。