アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 近頃はあまり心配事がないような気分だ。気分だからまたいつ、発作のように不安が神経を蝕んで緊張状態に陥らせ頭の上からつま先まで固くするのかわからない。しかし、私はいま空気に包まれているようだ。肌の周りに空気の層があって、それに守られている。直接に事物と触れ合うことから自分を守る肥後膜のようなもの。その正体は、優しさである。優しさの気まぐれの中に安住していると世の中も平和に見える。アメ横を歩くと、薄汚れたパーカーを着てヨレヨレの靴を履いたおじさんが歩いている。渋谷では頭を見事に禿げ上がらせたおじさんの頭の上を雨の日の冷たい風が吹き抜ける。見た目では薄汚れているが、心では華やかさを求めているに違いない。だれも、寒くて冷たい場所を好む人はいないだろう。太古の人は洞窟で暖かく暮らした。火を起こす技術を知らなかったので、一度焚いた火を絶やさぬように寝ていても数時間すれば起きて火が絶えぬように落ちている木を放り投げたりしたのだろう。断定ができないのは、私がその現場を見ていないからだ。私は自分が見たことと自分が推測して、あるいは妄想して語る部分を混同させないように努めている。ある人は、思い込みが激しくて彼の思想を他の人の思想に見出し、その他の人を批評する。小林秀雄のようなものだ。彼の文章は確かに突き抜けた自由なところがある。文体が、独特で当たり前のことを当たり前ではない言い回しで言う。一方で、サラッと書くときもある。小林秀雄を読むと確かにその文章に引き込まれるが、彼の言いたいことは文章上に表現されてしまっているのだ。場当たり的で、何か相手に意をくんでもらおうと言い回しを諄くしてみたりすることがない。私は小林秀雄のような文章を書きたいと思った。世の中があまりにも自分を見捨てて、得点に迎合するような文章ばかりを書いているように思えたからだ。彼らは実際にそうなのかもしれない。自由に書くのは非常に難しい。あるテーマについて、しかも、文章を書くのがいいと思うの。思っていることを書くのは難しい。書くために、つまらないテーマを設定して自分の書きたいことから遠ざかっていくばかりだ。それで、良い場合ももちろんあるのだ。だれかに評価される際、もしくは弁護したくない被疑者の弁護人であったりするのだ。言葉のルールで戦うのと、魂を言葉に乗せるのは大きな違いではなかろうか。さっさと定型文に落とし込めて、法の安定性と弁解しながら忙しい実務に励む裁判官の個人的な思想は、一挙に仕事を担わされそれに文句も言えないが名誉だけはいっちょまえにあるので、その椅子に座り込んでいる裁判官を悪くは言えない。私たちは、いろんな人に対して偏見を持ちすぎであるから偏見を捨てろと言われても、簡単に捨てられるもんじゃない。でも、今の私は偏見が捨てられるように思っている。ひとつは、自分をなくすことだ。それは、難しいというよりコツがあるのだ。信条だとか、信念だとかを自分が持っていることをまず知らなくちゃならない。相手のことをどう思うかについて自由でなくちゃならない。その上で、相手を自由に見るのは、私にも同じような自由をもたらす。皆一様にひとつの癖を持っている。短気な人であったり、優しい人であったり。それが、各人に様々に見られる。優しさが弱さに、短気さが雄々しさに。しかし、各人が拠り所にしているパーソナリティの根源は、魂のようなもので、それは一つである。それにまとめられる。しかし、あいての性格について話すのはすこし踏み込みすぎでもあるかもしれない。あいての行為について話すのであり、その人間性には踏み込まないのも自分が自由に相手をみるためのコツとして必要かもしれない。だれかを憎むとき、それは誰かすでに憎んでいるような人の真似をするものだ。国民性ように、あるいは、友人、恋人、家族で仕草が似てくるように。考え方や、仕草、性格も伝染していくのである。社会の制度が悪いから凶悪犯が増える、といった場合、これは科学的な手法を用いて証明される出来事ではないかもしれない。しかし、あたりはつくであろう。そういう気がするであろう。論文という証拠がなければ何も言えないようで、ダメである。自分の感覚器官さえ、証拠になりうる自由はある。そして、その証拠の不確かさもまた自由の中にある。よく、自由が欲しいだとかいう何千回と耳にしたような言葉を吐く人間がいる。おそらく、自由が欲しいわけでもないし、自由について知らないし、自由になったとしても自由が欲しいと思うであろう。社会制度がある特定の犯罪を生み法律が対処していく場合に、誰の利益になるような制度が設計されるべきであるのかは、おそらく知っているものよりも、知らないものを保護する方向でなされるべきである。知らないものを保護しすぎると弱者保護の過剰であるというかもしれないが、自分が弱者であることを認識していない場合が多くある。何が多くて、何が少ないという話は、あまり意味をなさない。多いから正しいわけでもなく、小さいから正しいわけでもない。自分がどう思っているのかと考えるとき、アメリカ人は自由であるのか私にはわからない。彼らは、自己主張を信じているが、彼らの主張は一様であることがままある。日本の場合は、集団的ではあるが、個人への配慮は十分に及んでいるようだ。この種の議論も、もう古いのかもしれない。しかし、温故知新である。話が込み入ってきて雑草の中を歩いているようだ。金塊でも落ちているだろうか。自分の興味のあるところばかり歩いていては学ぶことは少ないだろう。習慣に従って生きているうちに、自分の欲望なり、自分が抑圧されていたことに気づき、他の人にもそう振る舞う人間も出てくるであろう。独りよがりになり、弱い女がたくさん従って、自分が強い男であると錯覚する人物も出てくるだろう。このように、女だとか、男だとか、あるいは、女が群がれば、男は自分が強いと錯覚するような人物がここにいる。あるとき、私は動画を見た。私の見る動画は、たいていくだらない。バイクがクラッシュした動画や、バイクが車とぶつかりそうになって互いに罵り合うような動画だ。とても激昂しているし、普段ではみられない視覚の感覚だ。あるとき、バイク乗りが道路に落ちているスズメを拾い上げ近くの花壇の上に乗せてあげたり、車の行き交う道路の真ん中で故障した車をみつけたバイク乗りが、バイクを止め、その車を後ろから押し安全な場所に避難させるのを手伝ったり、あるいは、森の中にいたなきじゃくる女性に声をかけ、暴力できな彼から逃げてきたのであろうが、その女の子をバイクの後ろに乗せ、自分のかぶっていたヘルメットやジャケットをきさせ、近くのファミレスに連れて行ったりと、そういった動画を見た。そして、コメント欄にあった言葉に私は納得した。「道路で怒り狂っている人間を見るよりも、こういった人間の行為を見るべきである」と。事故や、ハプニング、そして、下ネタは難しい。だれも、好きで事故に合わないし、下ネタも話している本人も心から面白いわけはないのだ。性的な事柄はプライベートであるゆえかもしれない。ニュートラルな姿勢は貫き通すのが難しい。力を抜くよりも、脱力させるのは難しい。難しい、難しいと嘆く言葉の裏には、意味のわからない言葉が待ち構えている。それらは、いつか言語化されるだろうと期待して椅子に座って出番を待ち続けている。邪険な眼で世の中を見るのは滑稽だというのいいすぎなのだ。ただ、私にできることはふつうであるように振る舞うことだろう。そうすると、周囲はふつうにみえてくる。世界が、陰謀に包まれているように思うと、そう見えてくる。私が人付き合いにこだわりがあるのも、私がある一定の友人の影響のもとに世界を見たくない気持ちがあるからなのだ。自分の物の見方を押し付けてくるような偏見に満ちて、その見方に気づくことなく、そして、変わることのない人間と話すのはすこし苦痛を感じるのだ。苦痛から逃れるのは、弱さだろうか。むしろ、多くの人はそのようなビッグマウスに追従して阿鼻叫喚し、自分が何者であるのかもわからずに、インターネットの情報に振り回されて、何が心から楽しいのかを見失っているようだ。一度オフラインにして、自分の体からくる感覚を楽しむべきであるように思われる。それは、難しいことではなくて簡単なことなのだ。しかし、すぐにスマホに手を伸ばしてしまう。これは、僕が自分への戒めで書いているよりも、誰か不特定の相手に書かれている文章であるように見えるけれども、これは、おそらくは、自分への戒めなのだ。このような形でしか、文章は成立しないのかもしれない。あいてを説得する目的で書かれた文章は見え透いているし、自分の反省文は相手にちっともわけのわからない文章になる。ひたすら平身低頭に謝っている人に、もう謝らないでくれというのに似ているような気がするのだ。意思の疎通が出来ていないのなら、謝ってもしょうがないじゃないか。心にもないような侘びと、内容を理解していないような心からの詫びも意味をなさないと考えているからそう思うのだろう。果たして、謝って欲しいという気持ちを抱くこと時代が間違っているように思うのだ。純粋に人間を心の底から謝って欲しいという、相手の気持ちの改心を要求できるのは、神である。私は神ではないので、心から相手に謝ってもらおうだなんて思っちゃいないし、そのような人間にあったこともない。私が失敗をしなかったからだろうか、それとも、相手に謝罪するような場面に出くわさなカッからだろうか。自らの過失で人を殺してしまい謝れば改心の情ありとみなされていある刑を免れることがあるかもしれない。しかし、その後相手に自分を誤らせたことに対する念を持つようになるだろう。

石川啄木に、

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

とある。

 

 

他人とは、混乱している。何を考えているのかわかりたくない相手である。沈黙していて、何をしでかすのかわからない。いつ怒り出すのかわからない。その他人が集まって構成された社会に生きる上で、ルールが必要である。人を殺すなとあれば、人間は人を殺すものかと思わずにはいられない。私は、何にとらわれているのだろうか。このような考えがもたらす最高の結果はなんだろうか。僕の文章は本当にちっとも良くならないし、思ったことをそのまま書いたほうがよっぽど良いと、道元さんが言っていたので、なんとなく自分もそれに賛成して、こうして色々と書いているのだけれども。

絶えず流れてきては、過ぎていくのが、人の意見で、何か言ったかと思えば、何を言ったかなんて覚えてもいない。人の意見は、自分を言葉にして縛りつけるようなものだ。思考が言葉に縛り付けられているのは、実に不愉快だ。そして、人間という言葉を使うのもやめようではないか。何か、間違っている気がする。私は、おそらく「人間」様について、何も語れない。私が持っている「人間」についての、妄想、希望、諦めを「人間」という単語に思いを込めたところで、人間について正しい理解などは決して得られない。そして、私が「人間」について話すとき、相手も人間であるから、その不自然さに不愉快になるかもしれない。とにかく、私は「人間」なんて言葉を使うのはやめにしよう。

強い主体が必要である。自らの気持ちを誰にも譲歩せずに明らかにするのが大事だ。では、自らの気持ちとはなんだろうか。私は、いけない扉を開こうとしているような気がする。自己を理解しようとする。例えば、テレビばかり見ていると、いつの間にか、テレビで起こったことが実際に自分の身に起きているように感じる。テレビでの事件が、自分の生きているところと何か関係があるように感じられる。テレビが持つのは、集団の意識への働きかけだけではない。集団の無意識にも確実に働きかけている。無意識とは、意識されていない前提だ。殺人事件が起きると、コメンテーターが異常な事件だ、という。異常な殺人事件とはなんだろうか。殺人事件が、そもそも異常ではないか。加えて、人が人を殺すのは昔からある人間の太古の営みではないか。セックスだけが、昔から行なわれているわけではない。私は、人間について語りながら、自分を慰めている。人間は、浮気をするものだから、自分が浮気されてもあまり衝撃を受けないように、といった具合に。予測不可能な人間の動きは、おそらく非常に不愉快なのだろう。人間不信も、自分の予測する人間の動きが、実際の人間の動きと合わないという状態であろう。相手に合わせて行動する人間ほど、相手に対してなんらかの一定の行動を求める。そして、自分もその相手の常態化した行動に符合することで、自分を取り戻すのである。相手と自分の区別をつけることができない。相手を自分の考えのもとに、もしくは、自分の信仰の元に行動させる。教師であれ、王様であれ、上司であれ、こういった行動をする 

 

 

「価値観っておもしろいわね。ほんとうに、受け入れ難い価値観ってないかも、私って心ひろめ?最高じゃん。地球がおうちなんだから。つまんない顔してないで、つまんない偏見捨てちゃってさ、散歩行こうよ。感情の拘束もいらないかも。悲しいから泣く、泣くから悲しい。悲しさなんて、デフォルト?葬式って、なんであんなに壮大なの。金かけさせるため?葬式ってさ、死を美化しようって感じかな?自分が死んだら、お経だけあげて終わりでいいな。お経だけはいるかな。宗教的かな。でも、お経だけかな。そんな感じで、葬式も面倒くさいことやらせるんだねーって感じで、老人の価値観学んでどうするんだ言って話。おじんは、おしっこ漏れそうになったらトイレに駆け込もう。いずれ、我が道よ、おじんも、おばんも。

 手を抜く技術を知るべきだ。何も、熱中するのも悪くないが、今の私には手を抜くのが最善だ。なぜかって?そんなの知るか。

 

「私って、本当にバカよね。人生損してるみたい。適切なアドバイスがあればもっと良かったのに。でも、ダメね。アドバイスを聞いたらもちろんそれに従うけれども、訳が分からないうちはいいのよ、でも、アドバイスってほんとうに始終関係でしかないように思うの。あそこにあるのは、私に従えばいいことあるよくらいのことなのよ。ほんとうに、どうかしてるわよね。結局、失敗するじゃない。アドバイスなんてそんなもんよ。そうしたら、アドバイスした人のせいにするの。いろんな人が私をクズ呼ばわりするけれども、私は違うと思うのね。え、誰もクズなんて言っていないって?たしかにそうね。でも、わたしは思うの。わたしが思っていることって、本当は私が思われていることと同じだって。つまりね、自分をとっても美人だと思うでしょ、そうすると自分は美人なのよ。でも、他者が介入してくるじゃない。ちょっと待って欲しいの。他者の介入の前段階があると思うの。それって、他者を扱うってことね。例えば、自分美人でしょって思ってる。私は。それで、すっごい美人がきた。男もやってきた。さて、3人だ。美人は、誰かって話になるの。美人っておかしいじゃない。ほんとうに、おかしいわよね。誰が、って言葉ひつようなの?私は美人である。それって、言葉としてはちっともおかしくないわよね。でも、3人の中で、美人を決めるのは、男にあるの。そして、美人に価値を置くのは、美人を評価された女の方よね。男も、すこしは美人である女の隠してるおっぱいやマンコを見れたっていうことでね、自分の価値を間接的に、所有とは男さんたちは思うのかしれないけれども、とにかく、そういった体験に価値があるのよ。賢いだとか、バカもそうよね。自分が美人だと証明したいなら、不美人を用意して、男に君は美人だねとか、臭いセリフはかせなくちゃならないの」

「それって、超面倒だね」

「面倒なの。いい家庭ですねっていう時って、すごく怖いじゃない。その人、私の家庭がいい感じかなんて知るはずないじゃない。ベッドに監視カメラでもしかけているのかしらっておもっちゃうわね。もちろん、お世辞なのはわかるけれども、それを本気て言っちゃうのって素直でもあるけれども、私ってそういういい家庭を演じなくちゃいけないのかって負担にもなるわね。私は、つねづね思うの。人を褒めるときはテキトーでいいんじゃないかって。褒めないってのは、素直じゃないと思うの。でも、素直のすごいですねってほめて、あとは褒めた人に気に入られるような真似は・・・」

「姉さん、姉さん、ちっとも面白くない話にまた舞い戻ってきているようですよ」

「あら、ほんと。もう、これだから。つまり、yesマンを探す旅に出るの。私だって、人生をすこしでもいいわねって言ってくれる人がいたらどれだけ肩の荷が降りることやら。人って、本当に余計なアドバイスばかりするじゃない。それって、先生じゃないのよ。自分に従いなさい。私生活からなにまで。そんな人間ってムカムカするの。自分がやってることを悪いなんてちっとも思わないの。でも、すごく狭い人なの。価値観はガチガチで、常に周りに人がいてそれを肯定してくれなくちゃダメなの。冒険なんてできっこないわ。サバイバル能力ゼロよ。生きていけない。だから、既存の社会制度にしがみつくの。だらしないわよね。嘘ばっかりついて、その嘘がちっとも気にならないくらい鈍感になってるの。でも、変なのよ、冗談がちっとも通じないの。ちょっと、おかしなこと言うと本気になって怒ってくるのよ。それくらい、価値観がガチガチで相手の価値観なんてクズだと思っているのよ。そんな人間の方が、よっぽどクズなんだと思うの」

「でもね、クズをクズ呼ばわりする人も同じかもしれないよ」

「そうかな。私は、クズ呼ばわりする人の心がクズであるだけなんだと思うの。例えば、かっこいいと言われる時、頭にかっこいい人が思い浮かぶわよね。イケメンが。自分がちっともそれと違うから、笑っちゃうじゃない。でも、私が美人って言われると、それは絶対なの。まあ男の人が相対的で、女の人は絶対的なのね。だから、比べるってのが本当に女の人は苦手ね。何が良くて何が悪いのか、それって、女は比べるっていう人いるかもしれないけれども、間違ってるわね。その代わり、間違いなんてないの。どれも、正解なの。なぜって、絶対評価だからよ。価値観も、絶対評価なんだから、どんな悪いことでも、その人にとっては良かったりして、逆に、いいことでも、その人にとっては悪いことだったりするの。女の人の価値観って、絶対的なの。でも、それじゃ辛いから、嘘でもいいから、相対的にイケメンとか言い始めるわけ。でも、イケメンじゃない男を抱くだけのちゃんとした囲いはもってるの。自分が評価される場所と、自分が評価を免れる場所をちゃんとふたつとも用意しているの。だから、楽なのかもしれないわね。でも、感情は移ろいやすいからちっとも当てにはならないけれどね」

「姉さんの弱いところは、感情が入ることだね。感情って、ちっとも本当のことを言わないじゃない。好き嫌いって、感情じゃないのよ。直感ね。感情ってのは、楽しいだとか嬉しいだとか、作れるもの。直感は、すごく論理的なんだ」

「あなたってよくわからないけど、そうかもね。私はすぐに相手の真意を読み取ろうとするのがいけないんだわ。挨拶だと思っていればいいのよ。ちっとも感情もなくってわけには、いかないわね。どこかしら、挨拶にも感情は載せられる。情感豊かってのは、その文字通り感情的な人をいうのね。生理の女は怒りっぽいから感情豊かに思われているのかもしれないけれど、それは違うわね。男だって、片足失えば落ち込むでしょ。それと一緒よ。また、生えてくるんだから」

「姉さんはちっともかわらないな。独り言が大好きで、それで、世界を見ようと頑張っている。しかも、毎回失敗しているし。また、失敗するんじゃないかって、怖がっているんじゃない」

「そうね、でも、怖いのも楽しいものよ。失敗だって、成功よりマシよ。精巧なてしたって、先がみえちまいますわな。下手も絵のうち。バカも人間よ。無理に平身低頭することもないわ。誰にだって同じようにぶち当たればいいのよ。それに、そんな芸当無理な時は適当にすればいいのよ。決まりが多すぎるは今の時代は。排除の法則だなんて論じてもしかたないの。つまらないわねー。バカになってもいいのよ。バカになってもやっていけるんだから」

 

 

きょうもくだらない記事が散見される。もう、いい加減にすればいいのにと思う。書籍化するほどでもない知識だ。いや、書籍化するだけの労力をかけるよりも楽に簡単に人の目につけばそれでいいのだ。文章も楽に書けるようになり誰でも多くの人にみられる環境を作ることができるようになった。ネットの世界に、展示会場を作り設営しているようなものだ。なにも、私はちっとも嘆いていない。どうなるのかというのが非常に退屈に思われる。謎のない世界はちっとも面白くないし、それに、男女の駆け引きに代表される金の駆け引きもちっとも興味がない。どうしたものか。やっぱり嘆いているではないか。私の文体がもう少しまともであれば、良かったのかもしれない。文体は、私を表すとでも?もう、私の思考体系が非常に滑稽なのだ。だから、いつも鬱々として日々を暮らしているのだろう。前頭葉が熱を帯びていた時代も、とうの昔に過ぎてしまった。今は、目を半目にだらけて、ものを書いている次第だが、それも悪くない。人間の神経は本当に、健康は、ただ、食べ物だけからやってくるものではないのを、如実に証明しているではないか。いいものを食べればいいかもしれないが、いい関係も非常に大事だということだ。

 

私は非常に強い憎しみを持っている。例えば、高校時代。私は部活に入るか、何も考えないでいた。練習に参加し、球拾いもした。ある日、早い段階で、部活の顧問が、部活をするのかしないのか尋ねてきた。私は、非常に権威的なこのメガネをかけた、こざっぱりした髪の白衣を着た男に、憎しみを持った。部活に、入るのか入らないのか。これほど、馬鹿げた質問はない。私は、拒否されたのだと今考えれは思ったのだろう。あるいは、私は、彼の権威を疑っていた。尊敬もしない、練習もせず、顧問という立場しかないこの男の言うことを今後きくのかと、問われた気がしのかもしれない。私は、練習に顔を出すのをやめた。それは、大正解であった。下らない人間関係の外は、非常な妄想が広がっていた。人間関係の妄想を信じ続けるより、一度外に出たので、より客観的になれた。そう、私は思った。それは、自分を褒めているのか。客観的な私とは、えらいのか。馬鹿げている。つまずく場所でもないはずだ。私は、おそらく、人間のやる気に非常に興味を持っている。動機だ。なぜ、それをしようと思ったのか。なぜ、バレーをやらないのかではなく、なぜ、バレーをするのか。私は精神的に自殺してしまった気がする。気がするので、実際はどうだろうと検証してみても無意味だ。私の心は、いったい誰が引き出すのか。どうしても濡れない女は、男が嫌いなのだろう。そう考えるのが、わかりやすいのか。非常に抽象的だ。

 

意識を投げ捨てよう。心からも離れよう。

 

ラカン精神病者を「無意識の殉教者」と呼ぶ

 

世間への不満

「世間ってホント不満だらけ。みんなつまらない常識にしがみついているんだもん。それって、息苦しいのよ。どうしてかわかるかしら。わからないかな。それって、結構あなた頭おかしいってことよね。常識の裏側にある、非常識な振る舞いに不寛容なのよ。それを、悪いことだって頭ごなしに怒り狂うの。怒りって、嫌い。怒る人間が嫌い。いかなる理由があれ、怒るのはまちがっているわ。それは、戦争と一緒よ。いかなる目的の元であっても、戦争をしちゃいけないの。それが、悲しい理由からであっても英雄のも右側からであっても、戦争はしちゃダメなの。なぜかわかるかしら。戦争しても、何も変わらないからよ。戦争がインターネットを生んだなんて嘘ね。インターネットは、人間を愚かにしたのよ。知識ばかりを、追い求める。価値のわからない人が増えた。価値は無限大だって?そんなことはないよ。価値は、君の許容範囲の広さみたいなものじゃない?って、また、若のわからないことを言い出す癖が治らないのはもう病的だからみなさんあきらめてくださいな。こういう人間がいても、別に痛くもかゆくもないし、無視してくださればいいのですから、でも、せめて無視されるのだから、その排除の心にそってすこしはわたしの妄想も展開されるべきなのよねっていう話をしたいだけなんだと思います。私って、本当に馬鹿ね。バカだからいろいろ考えられるのよ、頭がいいと評判のいいものしか口にしないでしょ、あれって、絶望的ね、自分の生存本能を殺しちゃっているのと一緒じゃない。どこでも暮らしていける人と、お家のベッドの上でしか寝た切りて生きていける人って、いったいどっちがいいんだろっておもったことないのかしらね。私は、どこでだって生きられる、変なベッドを作らない人の方がすごく好きなんだけれどね、私は、それを好きってだけで十分だと誰が言ってくれなきゃ、私何かしなくちゃならない気がするの。それって、すごくだれからも好かれることじゃないから、私のように、常に公平に生きようって大きな心を持っている人からすれば、とてもつかれるの。平身低頭で新聞を売りに来た小汚い男がいてね、わたし、家にいませんから新聞読めないんですって言ったの。ほんとうにいないんだもん。それでも、早口で全然話す機会を与えないのね。平身低頭って、無礼よね。礼がないひとって、すごく嫌い。だから、バタンってドア閉めちゃえばいいのに、できなかったの。ずっと話を聞いてたの。私、心の汗かいたわ。すごく疲れた。こんなに疲れるんだって思ったの。絶望もしたわね、こんな男って信用ならないじゃない。どうすればいいんだろって。心配と同じよ、この男でさえ受け入れてくれる女がいなくちゃ、どうするのって思ったの。本当に迷惑な話。人の家に来てさ、心配だけ与えて、結局ケロっとお隣へ行くのよ。あたしこれが普通なのかと思っちゃうから、本当に忘れたい記憶でもあるけれど、嫌いなのよね。ああ、嫌なことは忘れなくちゃね。慣れるしかないのよ。ほんとうに、私って変よね。どうすればこうも変になれるのかしら。白髪が増えるまで、生きるのかな。わかんないけど、ほんとうに私って、なんか女の子みたい。なんの話してたか忘れちゃった」

チャンスなのだろう。言葉に対する反応速度は遅くなるが、洗練された返しができるのかもしれない。僕はラカンを読まなくてはならない。自由とは、常に流れていく。つかみどころがない。論理的であるところだけが、唯一の取り柄である。非常に困った話だ。いったい何をすればいい。つぎはぎだらけではないか。一度、静かに施工してみよう。おそらく、強い風が吹いて、その情熱は容易に消えるだろう。その時、私は絶望する。しかし、絶望も悪くはない。皆が、絶望すれば、絶望は常識に変わる。今の世の中を、変えようとする気持ち。今が、すべてであると考える者たち。それは、安泰だろうか。絶望からか。どっちだって構わない。私は情熱と堕落を好む。勤勉さと、冷酷さはいらない。私は非常に繊細だ。繊細であるがゆえに、私の心は捉えがたい情熱を持ち合わせられない。冷たいコンクリートにぶつけて割る卵のように、私の頭は飛び散ってしまう。思考が散乱する。自分がなくなる。意味不明だ。自分は確かにある。しかし、ないのだ。以上のような考えに、とらわれた。病気のようなもの。診断名は、偏見と行こう。それか、プラシーボ効果の反対だ。回復を願わない患者だ。私は常識が我が身に宿るのを非常に恐れるだろう。簡単な神話に身を委ねるだろう。私は皆が嫌いだと、そう考える。非常にアホらしい。考えが暗すぎる。だから、明朗になれない。不安も、快活さも持ち合わせないゾンビだ。一切傷つかない心を持ち合わせた、機械のような人間だ。常に合理的で、間違いなどない。謝罪など決してしない。悪さえ、存在しない。なぜ、謝るのか。相手が迷惑を被ったのか。ならば、迷惑を被った相手の馬鹿さに、自分が頭をさげるのは、ご愁傷様です、といった意味なのだ。私は、常に過剰であった。ついには、過剰さえも意識されなくなった。その時、私はすべてを嫌悪した。この感覚は記憶に残るか。わからぬ。反応速度が変わる。経験が、私を常識的にする。もしくは、私を、非常識的にする。経験は、一種、結果を予測した仮説の実証だ。偏見から経験は作られる。絶望した。人間の内心に自由はない。自由を、ラカンは笑った。自由よ、私は自由が欲しい。願うほど遠くへ消失する、恋人よ、自由よ。願うほどに、変質を嫌う自由よ。自由は掴めない。山の上に光、海の中に潜り、風の中に消える。風のように思考する。経験はちっとも役に立たない。ボールを投げ犬が追いかける。経験とは、ボールを追いかける犬を言う。自由とは、ボールを追いかけない犬だ。それも、ボールを眺めもしない。飼い主ばかりを見ている。常に、マジックは人の目をそらし、カードを服から取り出す。私も、マジックに陥る。人間のごまかしは、人の目をそらすことだ。マジシャンも誤魔化される。それが、偏見だ。意見を求めない。我が意見を求めない。理論付けて記録しようか。名案だ。しかし、誰が。もちろん、自己責任。私が引き受けるべき。ただ、意味がない。意味が必要だ。やる気も必要だ。行動とは、なんだ。行動とは、言葉を壊す作業か。言葉がある。人間がいる。言葉は動かない。言葉は動かないのだろうか。意味を共有する。常に自分自身に否定的であれ。自分の考えと逆に行動せよ。思考とは、常に自分を欺く。悪者はいい者に仕立てる。真実は必要か。哲学と命名するのは、天才の発想だ。雄弁なのは、相手を思っている時ではなく、相手についてどうでもいい感情を持っている時だ。非常に好意を寄せた異性には、どうしても、本当のことしか言えないのだ。本当を言おうとする。気持ちの真意を伝えるのではない。言葉が足りないのではなく、見つからない。恋人は、常識人ではないのだ。常に。隣に座った夫人と、駅のトイレでセックスできるはずがない。性的関係こそ、オアシスだ。常識を外から眺める。人間の騙されやすさを、常識が救う。人は常に騙される。憤怒は馬鹿げている。当たり前ではない、毎日を過ごすのが常識人だ。彼らは非常に豊かな心を持っている。隠し持っていて、表に出すことがない。彼らこそ幸福をみつけられる。幸福は、免許である。幸福を維持できる力が必要だ。