アウトプット

相手の視点に立ってみよう

日本オワコン、復活の個人

 日本の統治機構すべてに見られる弊害と、構築されたシステムに操作され利益を算出するあり方は、人間性に反している。そもそも、人間性がネットワークにより構築されている。従って、人間性は変わる。だから、今の時代も十分に人間的である。しかし、人間が快楽を追求するにあたって余裕は大事である。ゆとりを批判しているのいは、自分たちの苦痛を周囲に広めたい醜い人間の所作だ。苦労を味あわせてやりたくないという優しい気持ちがない人々に取り囲まれて生きるのは地獄であろう。この世こそ地獄である。女はそれをよくわかっている。どこか冷めているのだ。

 組織内で死んだ人間を個人が救うのだ。それしか方法がない。組織が悪いのであって、人間は悪くないのだ。

現実を妄想と

 現実を妄想ととらえればいいじゃないか。そうすれば、妄想とはただの現実でしかなくなる。こんなことがあり得るのか。ご飯を食べたのにパンの味がする。つまり、言葉が記号でしかなくなっている。何も役に立たなくなった。ただ、人々に知恵を与えていたはずの言葉が、意味を持たない人間の思考形式から除外されて悩みの種になることをやめたのだ。自由という言葉が意味を持っていた時代に生きるのは、自由という言葉に翻弄されない人間だけだろう。一方で、物質的な欲望が掻き立てられ人間は持っているアイテムによって評価されるとなると非常に嘘がつきやすくもなるのだ。約束は破るに尽きる。信用を失っていき、最後は嘘つき同士集まってビジネスを始めて好きでもないことを、つまり自分にもおおっぴらに嘘をついて歩き回ることになる。こんな馬鹿げた世界に生きているときに、何をするべきなのか。

自由、自由、自由。

 あー、知らないもんね。知らない。知らない。拒否権発動!なぜ大人になるの?みんな怖い顔して。少しは笑ってみたら?笑うなってすごく難しいよ。まず感性が死んでたら無理だね。あら、いやになっちゃうねそんなこと言われたら。私ったら、反省よ。反省。とにかく、縄文時代にお面があったらしいの。本当よ?顔はね、遮光器土偶の目にそっくりなのよ。あの、膨らんだ目よ。何カップかしらね…あんまり大きそうではないけれど。とにかくそれってすごくない?縄文人が、儀式に、お面を使ってたって話よ?もちろん、かれらに着さっきいたわけじゃないからもしかしたらデスマスクかもしれない。もしかしたら、動画の顔をつくるときの練習、だったかもしれない。でも、一応はお面ということで国宝にされてるのね。はるか彼方の東北に住んでいた人たちがもう精神世界をもっていたというのだけれど、ローマ時代に比べたら日本なんて1000年くらい遅れてるんじゃないかしらね。いいうちに住んでいる人がみんな素晴らしい人ってわけではないからなんとも言えませんけれども。日本は交流を嫌うわよね。彼らにとって秩序こそが最も愛される人間なのよ。儀式を愛する国民ね。それになんの意味がなくてもいいの。意味なんて無い方がいいの。無気力な力を待っているのよ。それも無限にね。なんのために?と考えた瞬間に、もうやる気を失うの。だってそれが日本人だもの。本当に不埒な性格よね。だーいすき。三島由紀夫の虚無は日本人の、集合的無意識の体現よね!っとまあ、アウトプットはこのように続けられていくのでしょう。思考の残骸として、ここに破壊されたままの私の精神の破片を撒き散らしておしまいよ。片付けは誰がするっていうのよ?そんなの知らないわ。電気がなくなればみんなおしまいよ。

ネットをやめたら

 検索すればなにも記憶する必要はない。夏は衰えるばかりだ。知識は不要だ。つまり知識の感覚が衰えている。知ることについてこんなにも嫌悪感を抱かねば暮らしていけないのは、時代のせいもあるだろうが、ネットのせいでもあろう。責任は誰にあるのかは問題ではない。経済に好況不況の波があるように、人間が生きやすい波は近頃はあまり良い波ではないように思われる。ネットの繋がりは補足的なものであったはずであるが、リアルな世界を追い抜いて力を持ち始めている。目の前で死にそうな人がいても、遠くで鼻くそほじってテレビに貪りついている恋人とのやりとりにうつつを抜かす。非常識なのはいつの時代もそうだ。人間の発明が人間の暮らしを良くするためだけではない。何かわからずに使っている。それで人間が死んでも仕方がない。ネットの世界に浸り続けて現実に物を見る力が弱くなってもしょうがないではないか。私は人間に期待しない…といいながら、私の人間としての責任を放棄しようとしている。私は私を期待しないと宣言したやうなものだ。それでも構わない。私は誰からも必要とされない。いわば自立しているのだ。甘えてばっかりでわざと気を引くために余計な動作をする、ひねくれた末っ子気質な人間たちとは全く気が合わない。だから、放置だ。なんなら、頭をかち割ってやりたいくらいの気持ちだ。

 おっと失礼、いくらここは自由にものをかけるからといって、そうそう悪文を書いてばかりじゃ自分も不甲斐なからろう。私なんぞ最低ですよ…。本ばかり読んで、なにもいいことがないとほざいているんですからね。要するに、人に対してなにも教えたくない。なぜならば、人から教えられて学んだことなんて一つもないから。

 ああすればこうなるという図式を教えてもらっても、そうはならないから。なったとしても、やるのはきみ。いやになるね。本当に何もかもが。世界はビジネスホテルくらい狭くなっているような気かましてならないんだ。

 ネットをやめたら、世界が不思議になる。世界を愛するようになる。それだけの話だ。幸せになりたいんなら、検索するのをやめたらいい。

アウトプットの本来の趣旨

 いつの日か忘れていたのかもしれない。このブログは私が気持ちよく書くために開設されているのだ。誰のためでもない。まして、絶対に私のためではないのだ。なぜならば、私が書くことで私が得る利益は何一つない、ということになっているからだ。商業分が繁茂するよのウェブ界隈において、ここまで徹底的に自分に関わることだけを書いていくのは至難の技である。もしくは、単に私は商品を説明するのができない無能なのかもしれない。どちらにしろ、自分を無能だと思うことの利益を優先したい。なぜならば、世の中にはあまりにも知ったかぶりをしている人間が多すぎるからだ。確かに、世の中は秩序の幻想の中に構築されているのだから、知ることなぞそもそもできないのだ。しかし、そのネットワークに拘束されている自分がわからないのはもどかしい。どちらにせよ、世間を悪く言うつもりはない。労働している人に悪口を書きたくない。皆、金を得るために嘘ついてなぞと、考えたくはないのだ。そして、それをあながち心理だとも思っていない。いらないものを買い、いらないもののために働き、そのいらないものを入らないと言わずに貪欲なまでに追及する愚かさが消費社会の実態なのだとしたら。私はすこしもこの社会をいいとは思わない。しかし、他にいい社会があった場合それが悪くなってしまう危険性もあるわけだ。この世界という時、私たちはいくつの世界があるのか。相対的なはずだが、絶対的な世界観は人々の幻想が作り出した世界だ。そこにアクセスするのかしないのかの判断は、生まれ育った環境によるところが多いのであろう。唯一変わらないのが言語であるのだから、言葉は大切に扱わなくちゃならない。特に、人間は言葉を話す生き物だ。耳も目も聞こえな人は人間なのか。人間だが、あらゆる罪から逃れている。欲望を巻き起こすこともなければの話であるのだが。

 情熱はほとばしり。狂気である。人間は狂気なる生き物である。その自覚なくして宗教も、法律のも成立しない。国会も不要、警察も不要なのだ。つまり、人間は狂気に陥る。それがスタンダード。だから、己の狂気を自覚すればいいのだ。また、利用しなくちゃならぬ。どうしてもパンツが盗みたい奴がいる。もし野放しにすれば、取り締まる法律がなければ、女がパンツ泥棒に恐怖してしまい、世の男性は嫌われるであろう。守られる法益と、守るべき法益。つまり、熟慮に熟慮を重ねて、推論ではなく、結果ありきで・・・。

 このような思考は、私を憂鬱にさせる。すべて仕込まれていて、私はただ、それを徐々に明かされていくだけなのだ。どこにも解かれない謎があるとすれば、物理や数学の世界だろうけれども、私はそちらは方面と関わりがない。ということは、もはやその時点で自由ではないでないか。自由であることは、義務がないこと。ということは、数学にとらわれないのもまた自由なのかもしれない。義務が発生しなのので責任を逃れることはできても、心理的な、つまり法律的な義務を成立する人間の感情なりが働きだす。だから、完全な自由はないのだろう。また、義務を愛する人もいるのだ。義務が果たされて初めて世の中が平和になると信じる人間だ。どうして、親孝行しなくちゃならないというのだろう。私が親孝行をしないと思っているからなのだ。どうして、君が好きだと嘘をつかなくちゃならないのだろう。どれだけ、嘘をつけるのか比べているようだ。どうして、私は生きているのだろう。ただ、細胞が朽ち果てるのを待っているだけだというのに。どこに真実があるのだろう、偽りの中にあるのなら、偽りの逆は真実なのであろう。それならば、真実を探すのは容易だが、どちらが、嘘でどちらが真実か不明になってしまう。

 僕は死にたいのか?

僕はもっといい人になりたい。いい人になっていい人と言われたい。それだけだ。いい人はいい人。

真剣な人は嫌いだ

 彼らは差別意識を持っている。自分の努力が選民意識と結合している人間は、自分が特別扱いされるのは当然であると考える。それが社会だから、としている。

 私は何も思わない。ただ、そうであると、俯瞰的に彼らを抽象化させて人間の輪郭をぼやけさせる。

 不毛な議論と言って、初めから結論が決まっているパワーゲームにしか参加しないのはどういうことだろう。