アウトプット

相手の視点に立ってみよう

まだまだ

いけませんね。まだまだ言いたいことが言えていないような気がしますのは私の勘違いでしょうか。あなたはもっと言いたいことがあるのだし、それを言ってしまえ刃牙が住むのに言わないからグズグズと同じところを周回しているように思われてなりません。それは無駄であるように私にもまた世間様にもそう思われるでしょう。それは生きていく上で非常に苦しい思いをしなくてはならないということを意味しているようにも思われるのですがいかがでしょうか。

 

私は本当のことが言いたいのであって嘘はつきたくないので正直に解凍しよう。世間などクソッタレである。しかし、見捨てたりはしない。偉そうなことをいうようであるが、世界など潰れてしまえと思ってしまうくらい私には愛するべき人がいないのだ。それは、執着がないということに還元されるべきことかもしれないが、素晴らしいと思っていた人が裏切りにあって実はとんでも無いやつだと知ったときの絶望と似ているのだ。

 

今日も快調にどうでもいい文章を順調に書いているようですね。あなたの文章は話題性が非常に乏しいのですがそれは人間と関わり合いが少ないことが起因しているのでしょうか。教えてくれると非常にありがたいです。

 

いえ、あなたに何を解凍しても私のことなどどうでもいいのです。アタな自信ことについて話しなさい。それがいかに難しいことであるのか知れるでしょう。つまり、あなたは自分にできないことを私に強制しているのです。

 

ありがとうございます。これからは、他人を強制しないようにしたいと思います。

 

それなら、相手が今からビルを飛ぼうとしている時にあなたはそいつをとめないということか。電車に飛び込もうとしている人に向かって、ただ何もしないというわけか。殺してくれと頼んでくれる人をあなたは殺してしまうのか。

 

はて、何のお話だかちっともわかりません。

 

わからないのならそれでいい。わたしはいうことがない。なにひとついうことがない。

2019年

 決意が嫌いだ。決意したことは叶えられないようにできている。それは一般的にそういうわけではない。世の中には、決意を新たにという人もいるだろう。過去を引きずらずに新しく歩もうと考える人もいるのだ。しかし、それは不可能だ。私にとって過去は掛け替えのない財産なのだから。それしか消費するものがないというのも悲しい現実である。誰に対しても、私はよそ者顔で歩いている。それをここに告白するくらいのことしか能がないのだからしょうがない。人間真実を追い求めてしまえば虚無に帰するのが実装だというのがそろそろわかり始めてきたのではないかと思う。全ては虚無であるといいながら実感が全く湧かない。ご飯は相変わらずに美味しいのだ。

 ついでに言えば、論証の必要性がわからないのだ。すでに嘘がまかり通れるような世の中になっているのであるならば、想像力を推し進めるべきなのかもしれない。それが意味するのは、倫理観がなくなっているということなのであろう。最後の砦は倫理である。嘘をついて何が悪いという気持ちを持っていれば、それでも世間を私歩くことができる。しかも、思ったよりも快適に歩くことができるのだから使わない手はないのだ。嘘は潤滑油である。しかし、同時に身を破滅に向かわせるものでもあるのかもしれないがその事例があまりないので嘘のメリットである潤滑油としての使用方法を多用するのが今の流行りなのかもしれない。私は嘘を大いについていることを自覚しているが故に嘘をついていることが周りにバレるのですぐに自分は嘘がつけないようなシステムに自らを追い込んでいるのか、図らずとも自分の性格的な何かでそうなっているのか不明であるが、少なくとも私は嘘をつく際には相手の勘違いに乗じて嘘をつくか、それとも自らが間違っているが故に嘘になるのかという形でしか嘘をついていないように思える。何が本当で何が嘘なのかを知るには、やはり教育が必要なのである。倫理観がなくなってしまえば、人間はどうなってしまうのだろうか。矜持という言葉もなくなっている。本当に大事なことは言っちゃいけないのだ。告白文学を本音だと思っちゃいけないけれども、告白文学が楽しいのも本当だ。と書きながら、ちっとも太宰治を最近読んでいないのもまた本当だ。要するに本当だと書かなくてはならないような状態は嘘である。周囲が嘘を見破れないことを嘆くよりも、現代は、自分が周囲を納得させられることができなかったことを悔やむ時代である。世界は静かである。静謐な世界が一番良いのではないだろうか。私にはそう思われるのである外貨かであろうか。私は自分を卑下する暇を失ってしまって一向に構わないと思う。この辺の心理を会得し自分を納得させてきたが、今や何が理由でこんなことを書いているのか動機が判然としないのだ。いくらでも理由をつけてやらないことをやれる。理由はあくまである。論証は必要だろうか。相手を説得するのにどうすればいいのか。相手を説得したい気持ちがなければ相手を説得するための論証も不十分になってしまうのではないか。私は相手を説得したい気持ちがないから論証に不十分であり、なんでも勝手に好き嫌いで物事を信じてしまいたい気持ちがするのである。またその方が、効率的に物事が動き始めるのではニカという感じがするのである。しかし、効率的に無駄を排除すればことが足りるのかと言えばそうでもないような気がするのだ。効率的だという語感のイメージから連想されることに私は執着してしまっているとここに告白しなくてはならない。私はいつまでも分析される必要がある。それによって獲得された自由は言語の換気するイメーズからの逃走であろう。いったい私は人生という言葉を何百回使えば自分が納得できる人生についての説明を成すことができるというのだ。人生人生と私が言う時にそこには長期的に見た生活の先取りがあるのだろうと思われるのである。私が持っているのは若いという財産でしかないのだ。今の若者が金という財産のために何もできないでいるのは老人たちの仕込んだ罠であるとここに書いておく。家に帰りビデオカメラを回して商品説明するようなことは老人でもできるのだ。ただ、購買意欲が湧かないのはいうまでもない。いったいこの世界でどうして人は消費することでしか鬱憤を晴らせないような時代であると思わせることができているのか。ちっともわからないまま私は2019年を迎えてしまったのは非常に残念であるしまた、正月晴れが続いたにも関わらず家にずっといることはまるで老人にでもなったかのような気がして大嫌いであった。私は疲れたという言葉も嫌いだが、相手を褒めない人間も大嫌いだ。相手を叱って何の意味があるのか。ない。全くないのだ。不寛容がそこにあるだけじゃないか。褒めるとこは褒めて、褒められないところは黙っていればいい。その態度で人は成長しないとか言い始めるが、人間は成長などしないものだ。人間に成長を求めるのならば、自分がバカになればいい話ではないか。ある人は料理もできて綺麗好きでという人がいるかもしれない。そんかわりに、潔癖症でこうるさいに決まっているのだ。と、私はまたどうでもいいことを永遠と書き続けて脳みそを文字モードに変換してやろうという気合いを入れ直しているのだ。一体全体どうして僕はちっとも自分を愛せないのだろうというもう、答えきれない問いを持ち続けるよりかは小さな問いを積み重ねていって道を作る方が私を動かす動機人あるように思われる。ある目的を設定すればそのために努力をするかもしれないが、それは長続きはしないものである。おにぎり一個でエベレスト山に登ろうとする気合いとおんなじことかもしれない。加えて、自由に物が言えるというのは自分の発言の真意などどうでもよくてただ工場に上がった言葉をいかに下の上に乗せて空気中にばらまくかの話ではって、相手に真意の変更を促すような仏教的な仏説について少し辟易している部分があるのも本当だ。仏教は一人で学ぶものであるし、孤独に歩めと真理の言葉に書いてある。自分が尊敬する人がいないのであるならば、一人で歩めというのだから清々しい。だから、仏教が好きなのであるけれども好きだからという理由でこうも長く仏教的なことに惹かれはしないのだ。焼肉が好きだからという理由で毎日焼肉を食べようとはしない。しかし、仏教関連の本ならいくらでも読んでしまおうという気持ちが起こり得るし、本屋さんへ行っても仏教ボンのコーナーに行くんは嫌いだが講談社学術芸文庫の本棚に収められている仏教本は非常に面白い。

テレビのつまらなさ

 芸人が嫌いだ。あざとさがうるさい。金のために頑張ってる俺かっこいいって感じが、油ギトギトしてて胃がもたれそう。今時、テレビみてる奴は頭がおかしい。絶対におかしい。ネットがあるじゃん。その前に、目の前に人がいないのかよって話。自分の目で見て判断すればいい。資格をカメラマンに委ねるな!

 コメンテーターも大嫌い。本音じゃないから。本心じゃないから。いかに嘘ついて世間に迎合しているのかと考えると、疲れる。

 だから、テレビを見ているととっても疲れる。

ぬいぐるみ

 ふさふさの毛したぬいぐるみがね、ブランコの上に置いてあったの。全然汚くないよ。私が洗ってあげたから。えー、でも私が拾ったんだよ?ここがお家だよ?でも、私が拾ったんだから!いや!絶対に嫌!

 

 

関係性

 広大な無味乾燥な空間に文字を書いているような感覚でいる。読み手もいない。加えて果たすべき義務が何も感じられないのだ。責務がないので自由に物を言うが実行するのかしないのかの約束は果たされないままだ。結局は信頼を失い言葉も失う悲惨な結果に成り果ててしまうのだ。

 私の文章の悪さがひどく目立つ。記憶力が悪くなっているのも一つ理由に掲げられる。確かに、私はボケた。しかし、それでもなお書きたくてしょうがない。問題は、書いている時に自分でも思ってもいないことが書けたと言う感覚がないのだ。私は、普段何も考えないで生きている。

 周囲の環境はノイズにしか聞こえないのだ。美しいはずの鳥のさえずりも、それを美しいと思う人の気持ちを受け入れたくないほどに頑なになった私の心である。何者の感情も受け入れないで、自分の感情なども手やしないので無味乾燥な文章が出来上がるのである。

 しかし、情緒的な文章の多さに閉口して世の中の感動的な出来事を斜めに見ているだけかもしれないのだ。直接に感情を受け取る人たちは確かに得をするかもしれないが、普段苦しくて仕方がないはずである。それを修行というのなら、私は修行を終えているのかもしれない。

 私は、小説家にもなれない。なれない、と書くくらい受動的なのだ。決してならないであろう。しかし、ずっと書いていたい。病的な自分の考えをカルテとして保存しておきたいのだ。いずれ失われるであろう今の瞬間の自分を愛しすぎているからなのか。

 そのような問いへの答えに応答するほどに私は野暮ではないというすこしの自負がある。それも、一銭にもならない自負なので無駄だと思えるほどだ。また、そう信じている。

 世の人は一生社会という得体の知れない言語空間の外に出ることがないのであろう。社会という場所において自分がただの社会的な存在以上の何者かであることを自覚する機会は非常に少ないように思われる。社会的であるがゆえに精神的な安定を享受している大半の善良な人たちが存在するとしたら、彼らは情緒不安定の精神疾患持ちの狂人のようだ。

 私は何も求めたくないことを求める。今を満足して生きられることを超える知恵はない。株で儲ける知恵も、起業して金儲けをする魅力的なはずの知恵も、苦しみの種でしかない。

 そして、私は世の人の承認を求めることをやめてしまいたい。そうすれば、私はひとりでに泳いでいける。流れてどこに着くとしても自分を愛せるのならば、素晴らしい知識である。

 しかし、世の多くの人は他人の価値観を自己の価値観として内面化する。他人の価値観の表明が言語活動で行われ、言語を媒介に価値観を内面化して行動することで、奪い合いが生じる。

 私に足りないのは、足りないと思う気持ちであるようだ。今自分が何も書く材料がないと嘆く時、私は時間を無駄に過ごして捨ててしまっているのだ。無駄に過ごした時間を取り戻すためにゲームをしてみても、虚空は埋まらない。だから、外を出てたくさんお話をしたいのに、町の人は携帯電話をいじってばかりでちっとも話し相手になってくれない。

 生きている人間の話が全て重すぎるのだ。それに耐えきれない現代人は、生きることがますます苦しくなっていくだろうと考えるのは至極当然であるように思われる。

 傷つけ!と私が自らを鼓舞する際に時々使う。

 要は、私、さえ存在しないのだ。加えて言えば、他者さえ存在しないのだ。私と他者は実体がない。しかし、実体のない者同士が繋がる時に関係が成り立つ。関係性のもつ役割が、私であり、他者である。

 金持ちは、貧乏人がいて成り立つ。学者も、政治家も、運送屋も、店員もそうだ。関係性が全てだ。友達だから死ぬ気で助けてやるのだ。君だからじゃないのだ。

 

自己犠牲

自分を誰に捧げるのか。

人肉は食わないが、精神は食う。

人間はカニバリズム的である。

女性差別が流行ってる。逆差別も表裏一体だ。

謙虚になれ。

自己主張の時代に、差別が流行る。

嘘も結構。でも、本物の嘘であれ。

殺人犯の真似をして人を殺せば殺人犯だ

だったら、いい人の真似をしていいことをすればもういい人だ

 

馬鹿ども。

男女差別の問題は、男が優しくなれば終わる。それだけ。

優しくして欲しいのが女。わがままなんてない、あるがままの素直なのが女。

かんたんにセックスができるようになって、アニメキャラでぼっきするような男が、リアルな女の姿を見て驚愕した時代は終わった。

男はさらに優しくなるよう求められる。それは要求ではない。義務である。

男として生まれてきた義務である。

良かれと思ってやったことが、女にとっては最低最悪のことであるかもしれない。

悪いと思っても、許してくれるときがあるのも女である。

ああすればこうなる。

女はAIじゃない、ロボットじゃない、プログラミングでもキャラでもない。

男がかわるときである。

女性進出とは、男の意識改革でしかない。

男は、女性がいるから存在する。

女性は、男がいなくても存在する。