アウトプット

相手の視点に立ってみよう

社会性のなさ

 社会性のなさに原因はあるのか。あったとしても世界は流れていく。時間はとめどなく流れていく。顔は更けていき、もうすぐ面影がなくなっていく。どことなくその人だとわかるのは人間の記憶システムが優れているからではなく、ゆるさがあるからなのだろうか。あまりに鮮明に記憶していれば、日々変化する特徴を捉えきれずに顔がわからない認知症の様な状態になる。敷衍すれば認知症は全ての情報が鮮明になりすぎた結果少しの差異に異常な区別を設けて物の同一性を把握できない状態といえなくもない。しかし、認知症者の描く自画像が崩壊していく様を見ると情報の圧倒的な微細が異様に目立ち始めるというよりは、個々様々な特徴が崩壊していく様子が見て取れる。象徴的な言語の認識の網目が消失してしまい認識ができなくなっている。脳の器質的な症状を脳を解剖することではなく現象から推測するのが私の好きなやり方である。医療の目的は治癒だから、研究は正常人の状態に戻すことを目指すのが当たり前だ。将来は、全ての病気が治るかもしれない。遺伝子を遅らせて更けるのを遅らせることができるかもしれない。そこに倫理的な問題はもう存在しない。ある技術をふんだんに使いただ、自己否定の道を歩んでいけばいい。老けていく自分を否定し、認知症の自分を否定し、老ぼれていく自分を否定する気もは高まっていくが、医療は未だその先進的な手法を開発できておらず不安だけが先行し、ちょっとでも能力が発揮できないと怯えて自暴自棄となりゆとりを失って世の中が冷たく見える。

 社会性のなさ、は全ての人に言えるはずだ。全ての人間は狂気を内に秘めている。それは恐れでもある。阻害されることからの。自分が存在しないのだ。評価だけが存在意義である現代社会において人生を全うさせることは完全にシステムの指示通りに動くことだ。他人の指令を自分の欲望だと思い込ませる技術こそが、管理され制御され互いに監視し合う社会において今となっては風前の灯ともなった意志なる存在を保全するのに非常な力となるのではないだろうか。

 自分というのを、戦後日本は取り戻した。そして、今、もはや戦後は終わった。もう一度人々が団結をして豊かな生活を取り戻そうと金銭を当てにして生きている。例えば、賃金が増えて家を買い車を買い生活が楽になったとして人々は互いに孤立していくだけだ。家も、車も全て他人を排除するシステムである。金銭が増えることで、自らの孤独な趣味に他人からの評価を必要としないこだわりに経済的な余裕が見出されるわけだ。

 結局は、引きこもりたいのだ。それが、社会の欲望であるといえないだろうか。人と違った考えは、楽しい。皆同じ様に考えているふりをしている。決してそんなことはない。ただ、おめでたい人たちがそう考えている。残念なことだ。そのおめでたい人たちは多弁でうるさい。

 沈黙とは何か。沈黙とは知性をはかりにかけられないための保護手段でもない。もはや現代において知性は役に立たず旧世代の異物とされ凝り固まった思考の典型とされるが、本来自らの利害と全く関係のない知識を保有しているのは想像力のなせるわざであるし、人間は決して何の手がかりもなく思考することはできない。だから、勉強をしない人は仕事も何もかもできないのだ。自らの感覚を歴史的な文脈においた場合どう再び捉え直せば共有出来る財産に昇華できるのかを考えないので、他者から反感を買って自分勝手だと言われるのだ。本人はそれを気にしなければいいだけの話でもあるのだが。

 せっかくの休みはこうして鬱屈した文章の作成に捧げるほどに私はちっとも自分自身を生産に回していない様だが、別段消費することもないのだ。代わりに消費してくれるお金持ちの方々の手伝いなどまっぴらごめんであるが、そうなると臓器売買の市場に放り出されることもあり得る世の中であるから非常疲れるのだ。

 男は不誠実だ。だから、三島は至誠を座右の銘とした。では、あなたの座右の銘は何だ。