アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 徒然なるままさにパソコンに向かいて思っていることを書いてみると、やばい。やばいことを思っているのか。書いてみなくちゃわからない。自分が何を考えどうしたいのかを言いたくないということが存分に伝わってくる。いろんなことについて何もコメントしたくないし、何か感想なるものを持ちたくないという気持ちでいるのも本当に不思議。心がないといえば本当にそうかもしれない。実際に何も思わないんだ。人と今日つ感覚がない。それを持てないのか持たないでいるのかはわからないけれども、とにかく人に納得できるような文章を書くことよりも自分が描きたいことを書いて誤解される方がよほど自分にとってもいいわけがつくから責任が取れていいのだと思う。要するに一般論を振りかざして俺は正常だとか間違っていないだとか安心する気持ちを微塵も持とうとしない態度をどこかで身につけてしまったのだし、そのために自らが破滅的な境地に追いやられたとしても私自身は自分を恨むようなことはしないでこうしてなんでもないことをそこはかとなくかけるようになれば十分気持ちがいいように思われるのだ。今私はこうして描きながら自分が秘密主義であることにいやらしさを感じているのだけれど、自分で解いてみても本心なんてないんだ。おそらくは本心など全くないようにできているのかもしれない。言葉は完全に私の外部にある何者かで私の気持ちを代弁しているに過ぎないのであるから、私は言葉によって人間が救われることが多少はあったとしても完全に言葉に頼ることは間違いであるということを否応ながらもここに表明しなくてはならない事態に陥ってしまった。私自身この文章がどういう流れでどこにたどり着くのであるのかちっともわからないのだけれども、自分がこれを書くことにより変身することができればそれは私にとって願ったり叶ったりな事態であることに間違いはないのである。だから私は誰のためでもなくそして自分のためでもなくここに何かを書いているわけだけれども、それを人に読んでもらおうだとか言ってみたところで嘘ばかりになるのでやめておいた方がいいのかもしれない。案外自分の書いたものを読むことが一番楽しい読書なのかもしれないが、他人の書いた文章を読むことが私の喜びであるのであまりそういった自分の書いた文章を読み返す機会を習慣としても受けなかったがために他人の書き連ねた文章ばかり読んでしまっているのかもしれない。だから、つい先日金ばかり落として全く住んでいない東京の家に帰って机の引き出しにある日記帳を読んだら旋律としたものだ。まるで自分の書いた文章ではないし、太宰治的なテイストの文章がつらつらと書かれており、神様なんぞ登場して本当に苦しんでいる様子が伝わってくるのだ。いやそうではない、私がその文章を見て苦しんでいたのかもしれない。要するに文字を大事だという人間は文字の大切さということばかりに目が眩んで、五感を見失っているのである。たかが文字である。だから、文字は大事だし文章も大事だというけれど、それはそういう心がけているべきだという戒めであって当の本人は戒めから遠く離れたところにいらっしゃって自由闊達に文章を書く動機を自らのうちに内包していると考えられるのだ。だから、私はあんまり人の書いたことを記憶していないのだろうか。思ったのだが私が本を読むのは私では気づかないような疑問を他人が持っていることに興味惹かれているからなのかもしれない。なぜならば、私自身が考え付くような疑問はたかがしれていて他人にそれを聞いてもらうような偉そうな立場ではないので、ここになんとなく疑問らしきことを書くことしかできないのであって、私自身何か疑問を見つけたらそれをありがたがるわけでもなくどうすればそれを疑問ではなくて自分に納得して見せられるだろうという一つの社会的な原則なり人間的な真実なりを逆手にとって疑問をはねつけるようなことまで平気でするので、ある意味で私は本当に愚かで向学心もない人間だと筆まかせにデタラメなことを書いていたらそういった結論に至ったとしても全くもっておかしくないということに今更ながら気づかされるわけである。一体人間は文章を単純名かにするよりも、複雑な蜘蛛巣城にして自分は蚕の繭の中で守られているような気持ちでいた方が楽なのかもしれない。文章について様々な比喩を頭の中に想像することができるけれども、それらを他人と共有するだけの暇もないので自分がそれと付き合って一生孤独に生きていかなくちゃなrないのであるし、私自身孤独であることに慣れきってしまっており、人々が孤独だと感じないように毎日せわしなく生きていることを美徳だとか働くことはえらいだとか言って励ますような嘘つきにだけはなろうと思ってもどうしても慣れないたちの人間であることを今更ながら認めなくちゃならないことに刺して絶望的な気持ちも持たないのである。昔の自分が非常に懐かしく、あれもこれもと書いてはいたけれども、結局何を書いているのだろうという時に私は全く何も書いていないということに気づかされた。つまり、誰かの経験を書くわけではなく純粋な事故のない的な経験だけを書こうとしていたのだと思われるのだが、途中で僕自身何を書けばいいのかという悪魔の囁きに取り憑かれたせいで主題なるものを追い求めて純粋な事故に対する疑問や事故に対する感情的な疑問をここに書くことをやめてしまった。皆が飛びつきそうな話題について何か物申してやろうという気持ちが先走って事故をないがしろにしていることも相まって、同じ主題で何かを書こういう気持ちばかりが先行して、とにかくめちゃくちゃ亜ことばっかり書いていてそれに少し気づいているのだけれども文章を書くことをやめたくはないので何も書かないよりはマシだと言わんばかりに何か批判めいたものばかりを書いていたことも私は認めなくちゃならない。私はこうして自分がやってきたことを認めたり気づいたりすることで何か得られるものはあるのだろうかと自分に対して疑問を持つのであるけれども、刺して何も得ることはないだろうという結論んをここに披瀝して今回はこの記事をしめたいとおもう。