一人っ子

 私が書くことはすべて間違ってもいるし当たってもいるのだ。言語の性質とはそのような機能を有しているのだから。言葉の選び方に関して私が言いたいことは、まさに、言葉の機能という言葉の使い方にたいして、まるで言葉を家電製品のように扱っていることに、私は戒めを求めなくては気が済まないのだけれども。一体どこに、私を戒めてくれる人がいるのだろうか。

 日本語は感性である。したがって、神をもたない。父親がいないのである。ただ男も女も感性で生きるのだ。しかし、女は感情が優先され男は官能が優先される。感情は力への屈服であり、官能は力の信奉である。私はどちらも好まない。官能的になるほど盲目的に何かを信奉して生きているわけでもないし、力に屈服する程卑屈でも疲労しているわけでもないからだ。

 だから、私は不幸なのであろう。それに、自由なのでもあろう。

 一人っ子について語ってもどうしようもないことくらい誰にだって分かっている筈なのである。抵抗勢力さえ、仲間なのであるから。人生は喜劇である。真剣に生きる人間にとっては悲劇である。お遊びに生きる人間にとっては喜劇で敷かない。誰が死んだって結局は天国で会えるんだから。悲しいことはない筈である。だれにも依存しなければ誰が死んだって悲しみさえ残らないだろう。命の大切さを重んじるがあまり神経をすり減らして不幸な人生を歩むよりも、命の蔑ろを戒め命の燃え上がりを灯りに人生を歩んでいけば、どうなのだろうか。人生なんてただ先の見えない不安があるだけなのだ。運が悪ければ死ぬだけだという歌詞があるように、運が悪ければ本当にただ死ぬだけなのだ。運が良かったから生きているのだ。と考えれば、他人にも自然と優しくなれもするし、悩むこともない。

 私が、彼女から学んだのは、なんとかなるさという強い信念と諦めである。そして、諦めを受け入れる態度である。こだわることが人生において大いなる障壁になっていることについて私はどうも自分の人生を後悔しなくちゃならない情況におかれてしまっているのである。もはや、私させも自分の人生に意味を見出せないのでいる。

 彼女は私と異質である所以は、ものごとへの執着心である。彼女が執着することと私が執着することがちがっているのである。そして、それは浦と表であり。互いに、あえて執着しないようなことを互いが執着して思い出させるからつらくなるのだ。

 ただ、それだけなのかもしれない。ぼくは幸せになるのだろう、彼女の幸せを通じて。彼女の幸せの中を僕は暮らすのだろう。そして、それを補うよう努力するのだろう。私の努力は彼女に捧げられ、不満は私を蔑ろにした罪として私に汚名をかぶせるのだろう。