アウトプット

相手の視点に立ってみよう

このブログ暗い

 愚痴っていいですか?

 このブログめっちゃ暗い。なんか、世の中のことわかってます的な物言いがムカつく。それでいいのなら黙ってろよって感じがする。結局行動しないでキーボード打ちまくってる怠け者、大嫌い。全てを否定するわけじゃない。なぜなら、的を得ているところもあるから。でも、人間って結局は言葉じゃ動かないのよ。表情で動いたりするのよ。顔のほうがよっぽど相手に印象を与えるのに効果的な武器なのよ。だから、女は笑顔の練習なんかして楽しくもないのに笑顔を忘れないとか言っちゃってるのよ。でも、それで正解なの。嬉しいから笑顔になるわけじゃなかったのよ。これって真実ね。もう、あらかじめ決まってるの。笑顔になるから、嬉しくなるの。人間って脳みそで考えてる様に感情をコントロールできてないのね。実は、脳みそって反応しているだけなの。論理的に間違っていないと言われても、身体に宿った反応はそんなのすっ飛ばしちゃうんだから。だから、しょうがないじゃない。もう、言葉で全てを言い尽くそうっていう努力を放棄したら?でも、それは危ないかもしれない。言葉ってなんだ?何が嘘で何が本当か結局わからない。わからないからたくさん言葉を費やして舐める様に物事を見ていかなくちゃならない。一言でズバッと終わらせることもできるわよ。でも、多弁も悪くない。一面的なものの見方は力になるけど、折れやすいの。長続きしない。だって、飽きるじゃない。日本は戦争中悪いことをしました。って論調に飽きたのよ。政治家がね。そして、次に何を持ってくるって日本は悪くなかったってことよ。老人が死ぬでしょ。恨むわけよ。子供の頃頑張っておけばこんな生活しなくてすんだのにってね。それで、矛先は当時の先生にいくわけ。そして、日教組という団体を知って自虐史観を植え付けられたとかなんとか、幻聴が聞こえますとか言ってるようなもんじゃない。だって、先生の言うことを聞いたあんたが悪いんでしょってはなし。先生が言っていることが全て正しいとしたら世の中宗教よりタチが悪いよ。ただ、子供の頃何も考えずに薄ぼんやりと過ごして大人になってちょっと批判的な視線を手に入れて噛みつきやすいのが今はやりのかつての日本は云々なのよ。それに、引退したじじいばばあが新しいことに全く興味がないからくだらない自分たちが生きた時代の妄想劇を若者を巻き添えにして繰り広げようとしているのよ。昔は、どうだっただの。私はそんな話ちっとも面白くないね。でも、小林秀雄がすると違うんだな。なんでだろう。ちっともわからない。しゃべりの世界になってしまうから、内容とかどうでもいいんだよね。どう喋るのかっていうところに魂があるんじゃないのかな。ちっとも、僕らは言葉についてわかっちゃいない。わかっている様に振る舞ってるだけじゃないか。実に不思議な出来事だ。体験してもいないのに、相手の話が感覚的に嫌な気持ちを起こさせたり笑いを起こさせるのは。言葉は人間の生理に影響を与えるのには間違いないんだな。そこで、先に直角が来るんだろう。楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しいんだ。それと同じで、真実だから言葉があるんじゃない。言葉があるから真実があるんだ。それって、確かにそうで、真実っていうのは言語的な問題で人間はいくらでも虚偽に騙されるから、騙されたとしてもそれが真実だと本人が思っているのだし、まして、それ以上の真実はありえないんだ。つまり、人間は真実を言葉の中に見出したのだろう。なぜ、真実を追い求めるのか。感覚は常に嘘をつく。人間を見た目で判断する。目の前にいる髭を生やした男が、どこかの社長かもしれない。言葉は、髭親父に質問する。私の感覚が間違っていないのか確かめるために。案の定、物腰柔らかく笑顔は柔和で余裕のあるそぶり、これは何かただならぬ人だと思うに違いない。しかし、もっと素早いのは、直角で相手を把握することじゃないだろうか。質問攻めしなくちゃ相手がわからない様では、全くダメなのだ。言葉は相手を疑ってかかる。疑いが基調にあるので、言葉をかけるのは最低限じゃなくてはいけない。度を越すと相手は逃げてしまう。しかし、これは見知らぬ人との間での出来事。なるだけ、おしゃべりをするためには言葉を駆使しなくちゃならない。何を話題にするのか。そこが悩ましい。愚痴は嫌だ、相手が不愉快な気持ちになる。まして、自慢話は退屈だ。何を求めているのか。何か冒険話がいい。おしゃべりのためのおしゃべり。オスカーワイルドが読みたくなってきた。