アウトプット

相手の視点に立ってみよう

感情

 あるべき姿を目指すのか、あるいは本来の自分を目指すのか。世の中の意見はつまらない。北朝鮮は危ないだとか、韓国は反日だとか、日本は素晴らしいだとか。並べてみただけでも面白くない。政治家は偉そうに税金でたらふく飯を食っているし、殺人事件のニュースが多いのは、報道機関が警察からの垂れ込みをもとに取材しているからで、まったくもって社会に流されているし。

 ああ、皆はしたり顔でいきているし。不安があるのなら人を信用してしまえばいいのに、人が信用できないから不安だとか言い始めるし。文章は人に読んでもらうためにあるのだ。いいよなあ、偽りの自分が相手に認められていると信じ切れる人はさ。私は相手に対して何か自分を偽ってまでも金を出させるようなことはしたくはないんだ。相手に嘘をつくのはいけないことであるとおもう。そんな単純なことでは世界を楽しめない。騙されぬかなければ、世界はただ沈黙しているだけだ。

世界がおかしいならおかしい世界で生きていく

 究極の問いは避けられなければならない。死ぬか生きるのかの選択肢に至っていけないのだ。人生は長い長いおしゃべりの時間。不安になったり、楽しんだりと盛りだくさんだ。そうやって気を紛らわせて泣いたり笑ったりしてそして死ぬのが人生だ。人生に特に意味はない。死んでもすぐに忘れられる。なんのために生きているのかと問うのが、人生に何か目標があるという嘘から逃げる一つの道だ。そして、人生についてもう何も問わないのも人生を生きる方法の一つかもしれない。

 では、人々はなぜ人生について語るのか。人生について自問自答するのはよいが、人生について語ると途端に異論が出る。気恥ずかしさを伴って、人生とは何かを問い続け語り続けるのは生産性がないこととされている。この世界は、生産の必要性を問うてしまっては、労働力を失い納税が減る。納税が減れば公務員の給料は下がり、公共事業も止まる。これが人生とどう関係しているのか。

 日本は安全な国らしい。確かにそうだろう。それだけ相手を疑って、しきたりどおりに安全な国を設計してきたから安全なだけだ。安全であることは善だ。それに異議を申し立てれば異常者とみなされる。しかし、安全性に過剰に敏感になっているヒステリックであるとも言えなくもない。ヒステリックであることの認識は薄く、自分たちの正当性、自分たちの国が素晴らしいといいはじめる。自分たちの国を素晴らしいとわざわざいう必要がどこにあるのか。テレビの視聴者は50代以上の男女をメインにしている。もう戦争を知っている世代はそろそろいなくなる。戦争の反省を強いられた年代もそろそろいなくなれば次なる視聴者に提供する番組はどんな形をとるのか。テレビは常に遅れている。

 テレビを見ていると時代に取り残される。だから、極力見ないほうがいい。ながら視聴くらいがちょうどいいのである。BGMとしての役割をテレビに求めるのがちょうどいい。

 世界はおかしいだろうか。確かに、不安障害やら強迫神経症だとかを担った不安を回避するために互いに信頼し合わなくちゃならない。相手を騙す気もない人にとっては、相手からの信頼を得ることは不合理である。

 不合理であることが嫌いだといってみたところで、ここに金にもならないことを書いているのは生産性において不合理であると言わずにはおられない。たしかに、金にはならないことばかりを書き散らしている。けれども、何が重要で何が問題なのかを考えるには必要な行為である。生産性がなくても、新たな価値を見出すために新たな生産の可能性を見出すには必要な時間なのだ。日々、仕事に追われ人間関係において伝統を守り生きるのも大事だろう。

 思わぬ方向に筆が回ってテレビ批判になってしまった。私にとってテレビが大きな位置を占めているのだろう。私はテレビが大好きだったから最近のテレビが面白くないことに心を痛めているのだ。海外の番組が面白い。丸見えは海外の番組を買っていたし、アンビリバボーもそうだ。要するに、海外の番組が好きだったのだ。

 どうでもいい!なんの番組が好きなのかについて浅い分析をしても意味がない。ただ、何も考えたこともないことを考えたいのだ。それは、他者についてかもしれない。これから会うであろう他者について思いを巡らせても、おそらくは本音を言うことがないので、一定の礼儀に沿ったことを言っていれば相手もその礼儀に答えなくてはならない。そのときに、礼儀は温存される。

 礼儀や儀式を通じて人間は何をしようとしているのか。互いに同じ行動をすることで仲間になれる。一方で、全く違った行為をする人間を批判する。礼儀や儀式にそぐわない人間を排除していくのだ。しかし、本心は礼儀や儀式に捕らえられていない。考えて欲しい、理想的な夫を。非の打ち所がない人間を。彼らは礼儀や儀式を通じて非の打ち所がない人間になる。礼儀を忠実に守っている人間を批判することは自分にとって不利である。だから、礼儀や儀式は自分を守る甲羅となる。これに隠れていれば安心だ。世の中であったことも見たこともない他人が死んでも心を痛めることがない。痛めるとしても、それには他人の不幸を喜ぶ気持ちがにじみ出ている。しかし、みなそうではないだろうか。礼儀や儀式をあえて無視する人間たちもまたいかがであろうか。

 社会が一定の意見に満たされるのは不幸である。ある意見を支持するから、その人が素晴らしいとは限らない。正しい生き方をした人が、正しいとは言えない。正しい生き方をした人を正しいと言うのか。単純であるが、こういった単純な論理を疑うこともせずに世界が動いている。

韓国と仲良くなれたら 

 大方の日本人はね、韓国人のお友達なんていません。政府を通して、あるいは、政府の態度を自分の態度とみなしてマスコミから一方的に流れてくる情報にただ反応して、憤慨するのがネット民と言われる人たちです。ツイッターで即興的に反応してそれで終わり。熟考することがないから、議論が起こらない。解決の糸口は見えないままに国民の意思を反映しているとは思えない政府主導の元日韓関係が悪化してダメージを被るのは、一般の庶民ではないですか。北朝鮮がミサイルを撃ってくるかもしれないという危機さえなくなれば、日韓の対立もなくなるかもしれない。なぜなら、韓国が日本と対立するとしても軍事的な対立ではないからだ。一方で、北朝鮮は何をするかわからない。どこか、ミサイルを撃って威嚇しているだけであろうという楽観論を捨てきれない。近頃は、ミサイルを撃ちまくってきている。

 もっと、韓国人と仲良くなれたらなと思う。日本人だとか韓国人だとかいう仲間わけがなくなることはもうしばらくないのであろう。家族が崩壊し個人としてモナド化されたというが、家族の面倒を見なくちゃならないのは確かであるが、家族が近くにいなくてはならないというのも今後、周囲の大人が家族でなくても注意できれば、それに子供が気付けが全く問題はないはずである。しかし、子供を特に母親が囲って自らを女王様の位置に仕立て子供を洗脳していく。これは悲しいではないか。昼間うろついているおじさんとかおばさんが、落ち込んだ子供と会話することがなくなってしまった。だれもかれもが、不況により物が買えなくなったからますます、金を中心に世界をみる視点の獲得に動き出すようになった。確かに、今の世界も慣れてしまえば悪くない。皆が同じことを考えている。だから、摩擦も少ない。相手の価値観に真新しいものがありそれに拒否反応があると察知すれば話を変えればいい。だからと言って関係性まで変える必要はない。ゆるくてもいい。繋がっている方がいいのだ。それをわかっているのにできないのが今の人たちだ。情報が氾濫しているにも関わらず、生身の人間に対して大きな拒否反応を示す理由が私にはわからない。しかし、私も恐らくはそういった拒否反応を示している。なぜか、単純には理由を答えられない。わからないからだ。ただ、自分が心地よく生きるためには、何かを諦めなくてはならない。満員電車で心地よく過ごそうと思えば毎日がストレスなのだ。この毎日のストレスを軽減するために心地よく過ごそうという期待が裏切られるのを防ぐために、心地よさを捨てているのではないかと思う。思ったところでしょうがない。説得力がないと言われればそれまでだ。説得力で自分の社会的な地位の向上を目指すしかない人が政治をするとこうなる。

 世界は、喧嘩をしたり仲良くなったりを繰り返して今後も関係性を継続していくのであろう。それは発展だとか進展という形であれば良いのだろうがどうもいまはそのような状況ではない。私もなぜなのかわからない。このまま対立が続けばどうなるのか。子供達は敏感だ。彼らは子供の頃の培った観念で持って大人になった時にそれを基礎に判断するであろう。もしくは、それが合理的ですらある。彼らが大人になった時に再び日韓対立が起きるかもしれない。その前に、韓国と日本が仲良く慣ればいい。それによってダメージを受けるのは内需かもしれないけどね。要するに国に囲われている国民が、他国の人間と仲良くなる関係性としてビジネスが一番最も合理的である。遠い国に住んでいる相手と友達になるより、隣にいる人と友達になる方がいいに決まっている。地理的にも、そう言える。国内でも、遠方の友達と連絡を頻繁に撮る場合は近くに友達がいない時である。さて、仲良くするにしても言語の壁もある。だから、互いに理解できない。でも、同じ日本人同士でも理解できないことがある。理解できないことを理解できないままにしておくことがやり方を私たちは知っている。互いに対立しながらも、その対立という関係性において繋がっているという見方もできるかもしれないが、私はいい加減に理解できないが仲がいいという関係性に持ち込んで欲しいと願っている。

 

文字は死なない

 文字は死なないが心が死ぬことはある。相手の話を聞かないのはいいが、諦めて無視するのは本人たちのやることではない。やるべきことではない。

 私は今絶望にいる。この絶望がもっと大きな絶望にならなくては私は自分が生きている実感を得られない出る。痛みは存在である。私は存在することを欲しているのかもしれない。多くの人が自然を忘れて閉じこもっている間に私は外に飛び出した。あの夏はもう帰ってこないとは思えない。何度でも繰り返されるだけの夏がそこにはあるのだ。私は他者に応答しない。他者への応答は私自身への応答でしかない。結局は私自身が私と折り合いをつけることができれば、それで万事全てがうまくいくのだ。そういうものだ。

文字は優しい

 文字は非常に優しい。だから、僕は言葉を大事にする。しかし、言葉を大事にするとはどういうことか。その必要性が社会的な必要性とあっているのか。あっていないとしたら無駄なのだろうか。なぜ他者が必要なのであろうか。私の延長線上にはすでにもう他者がいるではないか。私が他者である限り十分に他者は存在している。なぜ、他者を意識しているのかといえば、自分を他者と区別するためではないか。つまり、自分が他者により構成されていることを忘れているのではないか。もしくは、他者性を排除して自己を守ろうとしているだけではないだろうか。だから、正義の話ができないのだ。偽善だとかいってしまうのだ。偽善なはずがない。他者がいるのだから。全ての人に他者はいる。自分を他者と自分に区別するのが間違っている。自分だけを満たしても、満たされる主体には他者も存在しているのだから。