アウトプット

相手の視点に立ってみよう

言いたいことを我慢してみる。それは決して言いたくないことを言うことではない。発言の発見である。言葉の発見である。

 たとえ、沈黙を貫いても人間は無意識の領域を言葉によって構築されているので、完全に自由な沈黙は不可能になっている。沈黙は最強だ。いかに秘密を守るのかは、沈黙でしか守れない。最強のセキュリティーは沈黙である。

 私は何を言いたのかを考えてみるときに、自分があんまり自分を信用していないことを発見する。例えば、自分が何かに成功したとしよう。石ころを狙い通りに鳥に命中させたとしよう。それは偶然であるといえば、謙虚であり、狙い通り落ちたのは自分の才能と努力のおかげであると思い、自分でなくちゃできない必然性を感じたときに自信を得るとしよう。そのときに獲得した自信とは、ちゃんと才能があったという安心感なのか。それとも、努力をしたからといった謙虚なものなのかの違いによる。

 概して人間は自信がない。なくていいのだ。ありすぎると予測がつかない。走っている電車に飛び乗る人間が出てくるかもしれない。俺は決して死なないという自信をもっているがために。

 自信がないという人間は実に謙虚だ。素晴らしいと思う。また、次に伸び代があるとも思える。

 だが、自信のある奴は同じことしかしない。心の裏では怯えているのだ。次失敗してしまったら自信のある自分を捨てるはめになる恐怖から。だから、ひたすら同じことばかりしている。

 究極に自信がある奴がプロフェッショナルと呼ばれる人間だ。彼らは、プロであって、その競技がなんであるかまではわかっていない。ただ、道を極めたと自らも他人もそう思い込むだけの成績をたたき出したことだけははっきりしている。また、人間を区別するのもそれくらいの判断でしかできないのだ。

 現代の人間は気持ちのいい人を作り出せないし、選べもしない。自分という存在がないのだ。他者に依存して成立している自分を認めたくないのだ。他者がいなくなれば、自分が自分と対決しなくちゃならない。しかし、それは避けたい。共同幻想の中幸せになりたい。今までの戦いは全ておかしかったのである。そう思わなければ、今の時代が進歩している証拠にはならない。しかし、感性は違うのだ。感性は時代を超える。

 君は世の中が進歩しているなって思っちゃいけない。いくら車が速く走っても、君が作ったわけじゃない。車が速く走ることに情熱を燃やせるのは、それしかやることがないからだ。車を売るために理由を叩きつけるのも、車なんて不要だからだ。

 面白い小説が読みたいのではない。物語に独自性があってもどうでもいい。日常生活の真っ平らな物語でも鮮明さがあれば、小説になる。つまらないストーリー展開なのに読む人がいるのはなぜか。それが文芸だ。退屈極まりないはずの日常が、豊穣な海に化する。それが文芸だ。

 どれだけ自由になったとしてもそれを共有できなければ、宇宙空間に投げ出されたまま生き続ける人間とどう違うのだろうか。