アウトプット

相手の視点に立ってみよう

現在

 お元気ですか。私は元気です。元気があると嘘をつくのは得意なのです。ですから、元気とだけ言っておきます。人間の本質をあまり知りたくありません。平気で嘘をつく人たちを見ていると疲れます。もちろん私も嘘をつきます。ですから、私自身に疲れているのです。書いていることに百%自身がありません。それが普通です。文字を打つ行為にのみ意味があるので私は発言内容が保存されているもそれに対して責任を一切負いません。しかし、気分次第で責任を負っても構わないきもちになるかもしれません。全ては気持ち次第です。私は気分屋ですから今日は日本人でも明日はアメリカ人。もう夜ごろにはイタリア人朝にはフランス人になっているかもしれません。とにかく変わりやすい人間です。私は私自身にちっとも興味がわかない。すべてを悟っているような気分です。人間はなぜ嘘をつくのでしょうか。嘘はバレると必ず人を傷つけます。人を傷つけるようなことをしたくない。小さいときに私は言葉の端に必ず「かも」とつけていました。動いている雲は地球の自転によると考えられもするので、「かも」とつけていました。周囲と自分を比較して私を変わっている子供だという人間たちがひどく退屈です。世の人たちに気に入られるための努力をあまりにしすぎたせいで私は見事仮面を作り上げたまでは良かったのですが、飽きたのですね。それに実力不足もありかぶっていて仮面を脱いだときさて、仮面が用意されていなかった。それならば作るしかないということでいそいそと色々なキャラを演じてきましたがついに、やる気が失われてしましました。これもまた気分次第でありますので、明日ごろになるとけろっと仮面をこしらえて世の中を闊歩していることでしょう。ただ、一つ言えることは私は仮面を即興でこしらえることができても、同じ意見を毎回言うような人になれないと言うこと。また、話を聞いてもすぐに否定してくるような輩とは話をしない術を身につけてしまったので少し退屈しているのです。たぶん、何も疑問を持たずに通過するようにすればいいんでしょうけども、行き先が分かりきってますので自分に嘘をつき周囲に嘘をつきその嘘に苦しめられるバカな真似はしたくないので私は慎重になっているだけなのです。それさえ理解を求めません。ご自由に解釈してくださって構いません。なぜならば、私は何も他人に話すことがないからです。なんにもありません。面白い話もありません。作ろうとも思いません。出された料理はすべて食べますが、言葉に関しては非常に偏食家のようです。私自身そんな自分に嫌気がさしてもいるので今日はこの辺で勘弁してもらいたいように思います。自由に物を書くためにはまず自分が持っている定説を忘れ去りバカになってみることです。ネットで意見を拾い集めて自らを守る鎧をこしらえたつもりになっているネット住民、ツイッター民の多いことを肝に命じてください。それらの鎧がごみ収集所の生ゴミで作られていることを。近頃ネットニュースももう話題にされなくなりましたが、情報が隠蔽され入手しづらくなったのでますますニュースは報道が困難になりつつあります。もう天気予報くらいしか安心して見ることはできません。悲観的でしょうか。私たちはメディアが多様化することでメディアの命令権を分散させることに成功したのです。メディアはメッセージです。マクルーハンという偉い人が言っています。私たちはいらない情報に日々接して、花鳥風月の美しさを忘れ去っているのです。自分が売れたいためにテレビに出て厚化粧に、絶叫歌手。どれも、高慢ちきな薄っぺらの集まりです。それを認めたくない。私の心の代弁者だと言う。嘘をつけと言いたい。自分の心を投影していることに気づかない。そんな奴らにビールを飲ませ、肝臓を病ませ、病院送りにして火葬場で煙になる人生も確かに悪くはないでしょう。しかし、いらないものを売りつけ合うことでものの価値もわからず、訳のわからない商品が高値で売れるような市場なる欲望の吹き溜まりにはうんざりしています。私たちは欲しくないものを買わされていることに気づいているにも関わらず、その次に何をすればいいのかわからないのです。今まで刺激話耐えてくれた戦争、反戦運動、消費活動、次は不倫の是非、ネットモラル、これらは十分に多くの人たちの欲望を実現させるための道具として利用されてきました。次は何でしょうか。私たちはいい加減、いい人になるべきではないでしょうか。しかし、皆がいい人になればいい人はいなくなります。もう、矛盾とか言うレベルではありません。この世から言葉が消えていきます。残るのは法律だけでしょうか。それならば、怪しい奴をしょっぴいて死刑にしても構わない。なぜならば、もう微妙なニュアンスがないから。0か1の世界が待っているのです。それは羅漢でいう象徴界の世界だと誰かが言っていました。それをパクって今ここに紹介しています。私たちは0か1に大別できませんね。しかし、脳みそは0か1なんです。でも、0なのか1なのかギリギリまでせめぎあっているんです。とてもアナログチックなんです。ですから、全ての論旨が骨の髄まで正しいはずもなく、論理的展開も対して信用することができません。私は論理的思考をしこしこ磨きましたが、使い道は相手の言葉を批判することくらいです。論理的整合制がない。それはレトリックだ。とかね。それは科学の中でも実証的な反証可能な言論であるならば、一回の軌跡を論理的に説明することができてもそれを奇跡というほかはありません。確率的に表現するしかないのです。そうするともはやコンピュータしか対処しようがありません。全ての判断をコンピュータに任せて人間は出された答えを模倣すればいいのです。もはや人間は考える必要もない。五感を利用することも、第六感もいらない。こんな世界がやってきているように思われるのも私がコンピューター的な狭い領域でしか活動していないからでしょう。非常に残念なのは、私はまったく自分をコンピューターに勝つことばかり考えていることです。AIが自動運転することも反対だし、全て反対です。では、何に賛成するのかといえばもはや何もありません。強いていえば、私みたいな人たちが減ってくれることだと思います。もはや、人に読ませる文章を書く理由が私には無くなっています。とうの昔に、なくしているのです。気がつかないわけではありませんでした。ただ、なんとか頑張ってみたものの認めなくてはいつまでも0でもなく1でもない世界を浮遊するだけなのです。しかし、それでもいいのかもしれません。私には、もっと身勝手にならなくてはいけない衝動があります。私には。