アウトプット

相手の視点に立ってみよう

感覚

 一滴の水が舌を這いずり回る感覚を忘れている私たちは、音楽を聴いても雑音を聴いても美を見出すだけの力を持っているのだ。それは神話の世界の神になり、現代ではファンという読者になって金を投資して自らの崇める神を確認しているのだ。私にはわからないという態度をするのが気に入らない。わからないといえば何も考えずにただわかっているという人と会ってその人から意見を聞けばいいというのが気にくわない。それがコミュニケーションと呼ばれる形態で、各々私たちは他人に期待される行動をとることで他人の記憶や他人の世界観を押し付け合い生きているのだ。その押し付け合いとは、互いが完全には了解しあえないことを哲学により暴露されたときに実学に走り子供が欲しがるおもちゃを大人になっても欲しがるような眼差しで消費社会に突っ込んでいくのだ。私たちはゴミを買わなくちゃ社会が成り立たないという妄想を互いに共有し、その苦労も互いに共有することで社交的な人となり皆から支持される政治家にまでなれるかもしれない。それが真理だと納得できれば私は苦労しないが、私は論理で考えると人間の感情は互いの創作的意欲により作られた幻想でしかないと感じずにはおられない。今問われているのは、私たちは人間を今度は如何なる存在として規定しようかと悩みあぐねているのだ。人間という基準が変わることで私たちはかつてに古代ギリシャ人たちや平安時代に生きた記録にも残らない人たちと全く別であるという感覚を持つことになるのだがそれは全くの嘘で人間が今まで創作的に作り上げてきた概念のその基体には変化しないのではないだろうか。ラカンがそれをなんといったのか私にはわからない。構造は変化しないということを私は言いたいのだろう。

 私たちは疲れてはいけない。疲れてしまえば私たちは私を失うだろう。私を失えば私は存在せず炉端で死んでいるだろう。その黒い死体は夜の闇に紛れて人に気づかれずいつの間にか白骨して風化した塵となり大気中に分散して世の人の肺に入る血管に入り誰かの恋路を船を漕がせるオールとなって力強く湖畔に波を立たせるだろう。

 死んではいけない。死んではいけない。誰が決めたことでもない。誰も悲しまないかもしれない。でも、死ぬという心持ちを持てたのなら社会を変えられる。同じような道を歩んでくる人たちに先回りしてベッドやシーツ、暖かいご飯やシャワー石鹸やシャンプーリンスを用意して待っていることができる。死にたいということを無碍に否定はできない理由がここにある。