アウトプット

相手の視点に立ってみよう

怠惰なる読書

 世の中には批評がたくさんある。特に、小林秀雄は批評家だけれども少し違う。彼はわかるために自らを殺したのだ。そのくらい熱中している。しかし、その他の批評家の文章はありゃ一体なんだ。三島は右翼作家だとか、伝統的だとか、真の保守だとかそういう見方しかできない。党派的な見方でしか理解できないのであるのならば、三島由紀夫を読むんじゃないと言いたくなるのだけれども世の中には三島について大して何も知らないのに知っているふりをしてなんのマウンティングを行いたいのかわからない馬鹿と、多少読んで傾向も把握したけれども全く読書を素直に読めておらず好きなところだけを読んで済ましていることの多いことよ!だから私はここ数年三島について調べたけれども、特に彼について何か書いているのを読むのは楽であった。彼を理解するのに一番の材料は彼の作品を読むことであるのにそれをしないで誰かのとってつけたようなものを読んで自分のものにしていたのはただの盗人じゃないかと思われる。もちろんこの文章で言えば盗人であるのはこの私であるのに相違ない。ああ、私は少し三島行きを読んだだけで熱を上げてしまい飲める混んだのが美しい思い出であると書くまでに漏水しきっているのならば、明日の朝目が覚めれば極楽浄土で雲の中を死んだ人たちと酒を飲み交わしているのならば、それもまた私にとっては幸福な時間であると断言できる。いかにも文章を書くことは難しいことのように思われ、簡潔に書きなさいという人間もいるが私は決してそうは思わない。毎日トマトをそのままかじりついて美味しい美味しいと単純に食べるよりも何かスープにしたりしてトマトを頬張った方が美味しいじゃないかという単純な話なのである。私自身どうしていいかわからずに過ごしているけれども確かなのはこうして書くことで私の脳髄に刺激を与え何かしら別次元に自分を持って行き物事を多角的だと違った角度から眺めるとかいった世の人たちに腐るほど使い回されている言い回しから逃れることで、美味しい空気を吸うことができればこれ幸いと考えているのだ。それでつまり君が言いたいことはなんなのかと言われたときに、私には言いたいことなど少しもありませんただ好きなように体を動かすように書くのが気持ちいだけで、もっと文体を洗練させたいと考えるためにまず思考のフォームなるものについて考えてみようかと思うのです。

 私たちの頭はどうしても習慣に慣れ親しんでおります。例えば、テレビで使われる言葉の使い文句は最低な文章の典型です。端的に何が起こったのか知りたいと言った野次馬のために事件と関わりのない人たちに、真の事件からそれを簡略した事件を作り出して提出する馬鹿野郎が放送業界を牛耳っているわけです。面白くもない。